いざ、陸前高田へ。 [東日本大震災]
ご注意:以下の内容には「遺体」という言葉が多数出てきます。気分を悪くされる方はこの先を読まないようにして下さい。
かねてから志願していた陸前高田での行方不明者捜索にようやく自分も加われることになりました。今回はスケジュールの都合で2日しか活動が出来ませんが、全身全霊で作業を遂行して来ようと思っています。
今回の陸前高田での行方不明者捜索は8月からスタートしています。その活動結果を聞くにあたり、震災から2年半という年月の重さ、そして捜索の難しさというものを痛感せざるを得ない。
9月初旬にはおおよそ1週間で500人弱のボランティアが現地で活動をしました。1日平均約70名といったところですからそれなりに規模の大きな捜索が続いていると言えるでしょう。それで果たして行方不明者の遺体がどれだけ見つかったのかというと、骨のようなものが6本とのことです。少ない。そしてその全てが遺体の一部とは限らない。
てっきり、行方不明者の遺体が見つかる際にはある程度全身の骨が揃った状態で出てくるだろうとか、当時身に着けていた衣類や貴金属類なども一緒なんだろうと思っていました。でも、もはや一目でそれとわかるような状態では出てこないようです。これまで出て来たのは「骨のようなもの」でしかない。警察に引き渡し、調べてもらわないと果たしてそれが遺体の一部であるのかどうかさえもわからない。それほど、発見は難しい状況になってきている。
2年半の時点でこれだけ難しいのだから、5年、10年と先には遺体を発見するというのは至難の業なのではないかと思います。
陸前高田市では依然として210余名の行方不明者がいます。陸地の捜索はこれまでにもだいぶ進めてきたはずです。残るは海、そして現在では海の一部となっている古川沼です。特に古川沼は復興に伴い防潮堤や道路が作られる関係で部分的に埋め立てが開始されている。まだ行方不明者が埋まっているかもしれないのにその場所を埋め立てるということは遺族の方にとって悲痛な思いがあった。今回、有志団体が大規模な捜索をスタートさせたのはそんな遺族の方々の思いを汲み取ってのことでした。
行方不明になっている親族がまだ生きていると思っている人はさすがにいないと思いますが、このまま行方不明のままで終わって欲しくない。大事な人を探し出せないという歯痒さ、亡くなった方への申し訳なさ、きちんと弔ってあげられない事への無念さ、家族と同じ墓に入れてあげられないという悲しみ、そうした思いから開放されないまま人生を過ごしていかなくてはならなくなる。
行方不明者が出てくるかどうかはわからない。でももし発見できれば、行方不明者をきちんと弔うことが出来る。そうすれば遺族の思いも救われる。だから、行方不明者を捜索することの意味というのはとてつもなく大きい。
また、ある遺族の方は古川沼の捜索で気持ちに区切りを付けたいとおっしゃっている。古川沼は地元でも唯一充分な捜索がなされなかった場所。そこの捜索を終えれば、ほぼ一通りの捜索をしたとも言える。そういうことです。
実際問題、1人の人間が出向いて、たかだか2日間だけ捜索に加わったところで結果が大きく変わるなんて事はありえない。微力もいいところです。
それでも自分は行こうと思う。時間もお金も労力も注ぎ込んで何の結果も得られない可能性の方が圧倒的に大きいけれど、行かないで後悔するより遥かにいい。
自分は神頼みであるとか運なんてものに頼るのは好きではないです。でも今回は、あらゆるものを味方につけて何とか行方不明者の発見に繋げたい、そう強く願っています。
※ しばらくブログの更新を休止します。
かねてから志願していた陸前高田での行方不明者捜索にようやく自分も加われることになりました。今回はスケジュールの都合で2日しか活動が出来ませんが、全身全霊で作業を遂行して来ようと思っています。
今回の陸前高田での行方不明者捜索は8月からスタートしています。その活動結果を聞くにあたり、震災から2年半という年月の重さ、そして捜索の難しさというものを痛感せざるを得ない。
9月初旬にはおおよそ1週間で500人弱のボランティアが現地で活動をしました。1日平均約70名といったところですからそれなりに規模の大きな捜索が続いていると言えるでしょう。それで果たして行方不明者の遺体がどれだけ見つかったのかというと、骨のようなものが6本とのことです。少ない。そしてその全てが遺体の一部とは限らない。
てっきり、行方不明者の遺体が見つかる際にはある程度全身の骨が揃った状態で出てくるだろうとか、当時身に着けていた衣類や貴金属類なども一緒なんだろうと思っていました。でも、もはや一目でそれとわかるような状態では出てこないようです。これまで出て来たのは「骨のようなもの」でしかない。警察に引き渡し、調べてもらわないと果たしてそれが遺体の一部であるのかどうかさえもわからない。それほど、発見は難しい状況になってきている。
2年半の時点でこれだけ難しいのだから、5年、10年と先には遺体を発見するというのは至難の業なのではないかと思います。
陸前高田市では依然として210余名の行方不明者がいます。陸地の捜索はこれまでにもだいぶ進めてきたはずです。残るは海、そして現在では海の一部となっている古川沼です。特に古川沼は復興に伴い防潮堤や道路が作られる関係で部分的に埋め立てが開始されている。まだ行方不明者が埋まっているかもしれないのにその場所を埋め立てるということは遺族の方にとって悲痛な思いがあった。今回、有志団体が大規模な捜索をスタートさせたのはそんな遺族の方々の思いを汲み取ってのことでした。
行方不明になっている親族がまだ生きていると思っている人はさすがにいないと思いますが、このまま行方不明のままで終わって欲しくない。大事な人を探し出せないという歯痒さ、亡くなった方への申し訳なさ、きちんと弔ってあげられない事への無念さ、家族と同じ墓に入れてあげられないという悲しみ、そうした思いから開放されないまま人生を過ごしていかなくてはならなくなる。
行方不明者が出てくるかどうかはわからない。でももし発見できれば、行方不明者をきちんと弔うことが出来る。そうすれば遺族の思いも救われる。だから、行方不明者を捜索することの意味というのはとてつもなく大きい。
また、ある遺族の方は古川沼の捜索で気持ちに区切りを付けたいとおっしゃっている。古川沼は地元でも唯一充分な捜索がなされなかった場所。そこの捜索を終えれば、ほぼ一通りの捜索をしたとも言える。そういうことです。
実際問題、1人の人間が出向いて、たかだか2日間だけ捜索に加わったところで結果が大きく変わるなんて事はありえない。微力もいいところです。
それでも自分は行こうと思う。時間もお金も労力も注ぎ込んで何の結果も得られない可能性の方が圧倒的に大きいけれど、行かないで後悔するより遥かにいい。
自分は神頼みであるとか運なんてものに頼るのは好きではないです。でも今回は、あらゆるものを味方につけて何とか行方不明者の発見に繋げたい、そう強く願っています。
※ しばらくブログの更新を休止します。
今だからこそ、陸前高田へ。 [東日本大震災]
今日で震災から丁度2年半となりました。相変わらず福島の原発事故は収束する様子が見られず連日の報道がなされているけれど、被災地の復興に関してはだいぶ世間の関心が薄れてきているようにも感じられます。
昨日、受け入れ先からの連絡があり、スケジュール調整していた陸前高田行きが正式に決まりました。夏季にはスケジュール調整がうまくいかずに一度断念していたものです。陸前高田では、行方不明者の捜索に加わる予定。
陸前高田市では現在も210余名もの行方不明者がいます。とはいえ、これまでだって行方不明者の捜索が行われてこなかったわけじゃない。まして2年半もの時間が経過した今、新たに行方不明者を発見できる確率は極めて低い。
では、なぜ今なのか?
今ではすっかり陸前高田市のシンボルの1つとなった「奇跡の一本松」この松の木は、元々は景観地としても有名だった高田松原という防潮林の中の1本でした。しかし津波はこの防潮林、そして砂浜をも飲み込んでしまった。津波はさらに古川沼をも飲み込み、現在では古川沼は海の一部と化してしまいました。
震災の前と後とでは地形がまるで変わっているのが航空写真でもわかります。松林も砂浜も古川沼に流れ込んだのです。もちろん、大量の瓦礫などとともに。
(特定非営利法人P@CT様のHPより)
古川沼はこれまでにも全く捜索がされなかったわけではありません。けれども水底の捜索は陸地とは全く勝手が異なります。今でも沼の中には大量の瓦礫や撤去しきれない建物の残骸などが沈んでいる。陸地は散々探したけれども、この沼の中にはまだ何人もの行方不明者が沈んでいる可能性が非常に高い。だから、地元の遺族の方々からも古川沼の捜索はかねてから高い要望があった。
しかし、復興が進むにつれてこの場所も埋め立てなければならない場所が出てきました。津波の再来に備えての防潮堤や道路は復興には不可欠なもので、それを止めさせるわけにはいかない。でも一度埋め立ててしまった場所はもう捜索は出来なくなる。そこにもし行方不明者の遺体が埋まっていたとしたら、半永久的に発見してあげることが出来なくなってしまう。遺族もまた辛い思いから開放されることがない。
既にもう一部の埋め立て工事は始まっています。一方で、埋められてしまう前にと、必死で捜索している人達がいる。
今しか探せない場所がある。時間は限られている。今だからこそ、陸前高田へ向かう意味があるのです。
昨日、受け入れ先からの連絡があり、スケジュール調整していた陸前高田行きが正式に決まりました。夏季にはスケジュール調整がうまくいかずに一度断念していたものです。陸前高田では、行方不明者の捜索に加わる予定。
陸前高田市では現在も210余名もの行方不明者がいます。とはいえ、これまでだって行方不明者の捜索が行われてこなかったわけじゃない。まして2年半もの時間が経過した今、新たに行方不明者を発見できる確率は極めて低い。
では、なぜ今なのか?
今ではすっかり陸前高田市のシンボルの1つとなった「奇跡の一本松」この松の木は、元々は景観地としても有名だった高田松原という防潮林の中の1本でした。しかし津波はこの防潮林、そして砂浜をも飲み込んでしまった。津波はさらに古川沼をも飲み込み、現在では古川沼は海の一部と化してしまいました。
震災の前と後とでは地形がまるで変わっているのが航空写真でもわかります。松林も砂浜も古川沼に流れ込んだのです。もちろん、大量の瓦礫などとともに。
(特定非営利法人P@CT様のHPより)
古川沼はこれまでにも全く捜索がされなかったわけではありません。けれども水底の捜索は陸地とは全く勝手が異なります。今でも沼の中には大量の瓦礫や撤去しきれない建物の残骸などが沈んでいる。陸地は散々探したけれども、この沼の中にはまだ何人もの行方不明者が沈んでいる可能性が非常に高い。だから、地元の遺族の方々からも古川沼の捜索はかねてから高い要望があった。
しかし、復興が進むにつれてこの場所も埋め立てなければならない場所が出てきました。津波の再来に備えての防潮堤や道路は復興には不可欠なもので、それを止めさせるわけにはいかない。でも一度埋め立ててしまった場所はもう捜索は出来なくなる。そこにもし行方不明者の遺体が埋まっていたとしたら、半永久的に発見してあげることが出来なくなってしまう。遺族もまた辛い思いから開放されることがない。
既にもう一部の埋め立て工事は始まっています。一方で、埋められてしまう前にと、必死で捜索している人達がいる。
今しか探せない場所がある。時間は限られている。今だからこそ、陸前高田へ向かう意味があるのです。
釣り人の力、そして古川沼。 [東日本大震災]
以前にも記したことがあるのですが、もし釣り人の装備や技術を有効に使えたら、それは災害時に大きな力となるに違いありません。釣り人にしてみたら極めて当たり前な事であっても、それは一般レベルからは大きくかけ離れている、凄い事であったりするのです。
うちの近所に消防署があります。水害時に活用するものだと思うのですがトレーラーに積載されたボートが置いてある。ぶっちゃけ小さい。その小ささが有効な場面も当然あるとは思うのだけれど、そのボートでラフウォーターに乗り出すのはかえって危険と思える。まぁ、海無し県だからなのでしょうけれど。
それに比べて、バス釣りで使うボートはどうだ?サイドイメージの魚探なんて、水難事故の行方不明者を探そうと思ったら極めて有効でしょう。ちょっとした岩が映し出せるくらいなんだから。多分、消防署のボートが10隻くらいで湖底を棒で突付く作業を進めるより、バスボート2艇程度でしらみつぶしに魚探を掛けまくった方が早いのでは。
バスボートでなく、トップウォーターの人達が愛用するジョンボートだってかなり使い道がある。何せ、浅い水域だって航行できてしまうし、カートップで運んで人力で水辺に降ろせる。この機動力は唯一無比のものであるはずです。
ウェーダーだってもちろん役に立つ。けれども、ウェーダーというのは初めての人には向かない。転びそうになってまともに歩けないはずです。シーバス釣りなどでウェーディングに慣れている人とそれに慣れていない人とでは、水中での歩行スピードに雲泥の差が出る。
水中の様子を捉える偏光グラスも有効なアイテムです。そしてサイトフィッシングに長けている人の技術というのは普通の人には絶対に真似が出来ないものです。「自分はサイトフィッシング苦手だから・・・」そういう人だって、普通の人よりは水中の変化に敏感なはずです。だってよく、ゴミ溜めの中に浮いているようなロストルアー、見付けるでしょう?間違いなくそれも1つの技術であって、普通の人にはないものなのです。
岩手県の陸前高田市。この地ではまだ217人もの行方不明者がいます。そして震災から2年以上が経過した今でも未だに充分な捜索が行き届いていない場所がある。古川沼にはきっとまだ行方不明者の遺体がある、そう考える遺族の方々が沼の捜索を切望していたのは当然の事でしょう。そしてその沼に、ようやく本格的な潜水捜索が入ることになった。
ちなみにこの行方不明者捜索は、2つの団体が中心となり、岩手県、県警、海上保安庁、陸前高田市、漁協と連携の上で行われる関係上、ボランティアとして参加する場合でもAED講習を受けた上で参加しなくてはなりません。そもそもの内容的にも気軽に参加できるようなものではない。また、元々は沼でしたが、津波により海岸線が流失し、現在では海の一部となっているそうです。
間もなく行方不明者の捜索が始まるようです。でもまだ正式なボランティア募集のアナウンスが出ていない。もしかしたら釣り人としての力がここで生かせるかもしれないという思いがある。だから自分はこれに参加したいと切望しているのだけれど、時間が・・・7月末だったら行けるのだけれど、それまでに募集が始まるだろうか?
うちの近所に消防署があります。水害時に活用するものだと思うのですがトレーラーに積載されたボートが置いてある。ぶっちゃけ小さい。その小ささが有効な場面も当然あるとは思うのだけれど、そのボートでラフウォーターに乗り出すのはかえって危険と思える。まぁ、海無し県だからなのでしょうけれど。
それに比べて、バス釣りで使うボートはどうだ?サイドイメージの魚探なんて、水難事故の行方不明者を探そうと思ったら極めて有効でしょう。ちょっとした岩が映し出せるくらいなんだから。多分、消防署のボートが10隻くらいで湖底を棒で突付く作業を進めるより、バスボート2艇程度でしらみつぶしに魚探を掛けまくった方が早いのでは。
バスボートでなく、トップウォーターの人達が愛用するジョンボートだってかなり使い道がある。何せ、浅い水域だって航行できてしまうし、カートップで運んで人力で水辺に降ろせる。この機動力は唯一無比のものであるはずです。
ウェーダーだってもちろん役に立つ。けれども、ウェーダーというのは初めての人には向かない。転びそうになってまともに歩けないはずです。シーバス釣りなどでウェーディングに慣れている人とそれに慣れていない人とでは、水中での歩行スピードに雲泥の差が出る。
水中の様子を捉える偏光グラスも有効なアイテムです。そしてサイトフィッシングに長けている人の技術というのは普通の人には絶対に真似が出来ないものです。「自分はサイトフィッシング苦手だから・・・」そういう人だって、普通の人よりは水中の変化に敏感なはずです。だってよく、ゴミ溜めの中に浮いているようなロストルアー、見付けるでしょう?間違いなくそれも1つの技術であって、普通の人にはないものなのです。
岩手県の陸前高田市。この地ではまだ217人もの行方不明者がいます。そして震災から2年以上が経過した今でも未だに充分な捜索が行き届いていない場所がある。古川沼にはきっとまだ行方不明者の遺体がある、そう考える遺族の方々が沼の捜索を切望していたのは当然の事でしょう。そしてその沼に、ようやく本格的な潜水捜索が入ることになった。
ちなみにこの行方不明者捜索は、2つの団体が中心となり、岩手県、県警、海上保安庁、陸前高田市、漁協と連携の上で行われる関係上、ボランティアとして参加する場合でもAED講習を受けた上で参加しなくてはなりません。そもそもの内容的にも気軽に参加できるようなものではない。また、元々は沼でしたが、津波により海岸線が流失し、現在では海の一部となっているそうです。
間もなく行方不明者の捜索が始まるようです。でもまだ正式なボランティア募集のアナウンスが出ていない。もしかしたら釣り人としての力がここで生かせるかもしれないという思いがある。だから自分はこれに参加したいと切望しているのだけれど、時間が・・・7月末だったら行けるのだけれど、それまでに募集が始まるだろうか?
岩手にて思ったこと [東日本大震災]
3日間岩手に滞在して思ったこと。以下箇条書きにて記します。
前回はボートでのロックフィッシュゲームを体験させてもらったのですが、その際のタックルはというとヘビーアクションのベイトロッドに1oz級のシンカーを用いたテキサスリグがメインでした。このセッティングはボート釣りのみならず岸釣りにおいてもなお主流であり、特に磯場などでは絶対的なセッティングなのだろうと思います。
しかし今回は、特に湾内で釣りをされている方はほとんどスピニングタックルを使っていました。ラインはPEで、バスで言うところのパワーフィネス的なタックル。これでライトテキサスリグを遠投してプレッシャーの低い沖の根周りまで探るようなイメージ。ケースバイケースなのだろうとは思いますが、ロックフィッシュゲームのタックルもここまでライト化してきているとは思いませんでした。
土曜日に現地入りした際、レンタルボートで釣りをされている方が数名いました。釣り客に関してはまだまだ震災前の客数には程遠いとの事でしたが、昨年はほとんどローボートを借りる人がいないような状態だったのでそれに比べれば多少なりとも状況は良くなりつつあるのかもしれません。
昨年夏にレンタルタックルを現地に置いてきましたが、スピニングリールに関しては何件か貸し出し利用があったとの事でした。今後はもっと活用されて欲しいと願います。
小型船で磯際を箱眼鏡で覗き込む漁師さんが結構いました。まだ獲り始めていないようでしたが、ウニがどこにいるのかを事前チェックしているのだそう。驚くべきは、そのほぼ全ての漁師さんが船外機に加えてハンドコンエレキを使っていたことです。片手でハンドコンを操船しながら箱眼鏡で水中を覘いているのです。
「今はもう皆使っている。今時手漕ぎの漁師なんていないんですよ」という言葉に軽いカルチャーショックを受けた次第。ちなみに自分は最初からフットコンだったため、未だにハンドコンエレキの操船は大の苦手。
現地のスワンボートが増えていました。これは都内の音楽関係者の方が、CDの売上金を活用して寄付してくれたもの。この様子は現地の新聞でも取り上げられました。ボートが増えれば、それだけ観光客の受け皿も大きくなります。とても素晴らしいことだと思います。
観光客はひっきりなしに訪れる印象がしました。観光バスなどで来る団体さんも多く見られました。市内でイベント(ライブハウスでのイベント)などがあるとその来場者が遊びに来てくれるので、目に見えて客数が増えるとの事でした。
海岸線沿いでは依然として工事中の場所が多いです。
集まれ浄土ヶ浜イベントは終了しましたが、現地では引き続き日本釣り環境保全連盟の親子釣り教室、フォークデュオ「ワライナキ」のミニライブの予定もあるそうです。いずれも地域の活性化に繋がるものだと思います。
前回訪れたのが昨年の7月ですが、街並みはあまり変わっていないように思いました。既に町の復旧も一段落といったところなのかもしれません。しかし、津波の被害を受けて新地のようになってしまっていた場所(元々は住宅地)に、新たに駐車場や建物が出来ている場所がありました。これで良いのかどうかというのは自分にはわかりません。
仮設住宅の様子を伺うと、入居者間でのイザコザも多くなったとの事。改善されない住宅事情、決して住み易いとは言い難い仮設住宅での生活の長期化。苛立ちを感じている人が多いのも無理がありません。行政は一刻も早い状況の改善を行って欲しい。
岩手県宮古市は被災地の中でも復興が早く進んだ地であると思う。ここは行政(社協)も、個々の人達も他所からの人間を温かく迎え入れてくれる。だからここを訪れた人はまた来たいと思うし、何かの役に立ちたいという思いに駆られる。事実、震災後にボランティアとしてこの地を訪れた人で再度この地を訪れる人はかなり多いようだ。
ボランティア活動を行うのに見返りを求める人はいないと思うけれども、その受け入れや対応といった面で、折角のボランティアの士気が消沈してしまうような地域もあったと聞いている。そしてそうした地域ほど復興のスピードは遅い。宮古市の復旧が他と比べて早く進んだのは、この地に住む人達の温厚な人柄によるところが多少なりとも影響している気がしてならない。
自分が足を踏み入れた被災地はほんの一部に過ぎず、まだまだ問題が山積している地域もあるように思う。そうした地域で自分に何か手伝えるような事があるようならばこれからも協力していきたいと思うし、自分が出来ることを見出していく努力は続けていこうと思っている。
前回はボートでのロックフィッシュゲームを体験させてもらったのですが、その際のタックルはというとヘビーアクションのベイトロッドに1oz級のシンカーを用いたテキサスリグがメインでした。このセッティングはボート釣りのみならず岸釣りにおいてもなお主流であり、特に磯場などでは絶対的なセッティングなのだろうと思います。
しかし今回は、特に湾内で釣りをされている方はほとんどスピニングタックルを使っていました。ラインはPEで、バスで言うところのパワーフィネス的なタックル。これでライトテキサスリグを遠投してプレッシャーの低い沖の根周りまで探るようなイメージ。ケースバイケースなのだろうとは思いますが、ロックフィッシュゲームのタックルもここまでライト化してきているとは思いませんでした。
土曜日に現地入りした際、レンタルボートで釣りをされている方が数名いました。釣り客に関してはまだまだ震災前の客数には程遠いとの事でしたが、昨年はほとんどローボートを借りる人がいないような状態だったのでそれに比べれば多少なりとも状況は良くなりつつあるのかもしれません。
昨年夏にレンタルタックルを現地に置いてきましたが、スピニングリールに関しては何件か貸し出し利用があったとの事でした。今後はもっと活用されて欲しいと願います。
小型船で磯際を箱眼鏡で覗き込む漁師さんが結構いました。まだ獲り始めていないようでしたが、ウニがどこにいるのかを事前チェックしているのだそう。驚くべきは、そのほぼ全ての漁師さんが船外機に加えてハンドコンエレキを使っていたことです。片手でハンドコンを操船しながら箱眼鏡で水中を覘いているのです。
「今はもう皆使っている。今時手漕ぎの漁師なんていないんですよ」という言葉に軽いカルチャーショックを受けた次第。ちなみに自分は最初からフットコンだったため、未だにハンドコンエレキの操船は大の苦手。
現地のスワンボートが増えていました。これは都内の音楽関係者の方が、CDの売上金を活用して寄付してくれたもの。この様子は現地の新聞でも取り上げられました。ボートが増えれば、それだけ観光客の受け皿も大きくなります。とても素晴らしいことだと思います。
観光客はひっきりなしに訪れる印象がしました。観光バスなどで来る団体さんも多く見られました。市内でイベント(ライブハウスでのイベント)などがあるとその来場者が遊びに来てくれるので、目に見えて客数が増えるとの事でした。
海岸線沿いでは依然として工事中の場所が多いです。
集まれ浄土ヶ浜イベントは終了しましたが、現地では引き続き日本釣り環境保全連盟の親子釣り教室、フォークデュオ「ワライナキ」のミニライブの予定もあるそうです。いずれも地域の活性化に繋がるものだと思います。
前回訪れたのが昨年の7月ですが、街並みはあまり変わっていないように思いました。既に町の復旧も一段落といったところなのかもしれません。しかし、津波の被害を受けて新地のようになってしまっていた場所(元々は住宅地)に、新たに駐車場や建物が出来ている場所がありました。これで良いのかどうかというのは自分にはわかりません。
仮設住宅の様子を伺うと、入居者間でのイザコザも多くなったとの事。改善されない住宅事情、決して住み易いとは言い難い仮設住宅での生活の長期化。苛立ちを感じている人が多いのも無理がありません。行政は一刻も早い状況の改善を行って欲しい。
岩手県宮古市は被災地の中でも復興が早く進んだ地であると思う。ここは行政(社協)も、個々の人達も他所からの人間を温かく迎え入れてくれる。だからここを訪れた人はまた来たいと思うし、何かの役に立ちたいという思いに駆られる。事実、震災後にボランティアとしてこの地を訪れた人で再度この地を訪れる人はかなり多いようだ。
ボランティア活動を行うのに見返りを求める人はいないと思うけれども、その受け入れや対応といった面で、折角のボランティアの士気が消沈してしまうような地域もあったと聞いている。そしてそうした地域ほど復興のスピードは遅い。宮古市の復旧が他と比べて早く進んだのは、この地に住む人達の温厚な人柄によるところが多少なりとも影響している気がしてならない。
自分が足を踏み入れた被災地はほんの一部に過ぎず、まだまだ問題が山積している地域もあるように思う。そうした地域で自分に何か手伝えるような事があるようならばこれからも協力していきたいと思うし、自分が出来ることを見出していく努力は続けていこうと思っている。
次の一歩へ・9 [東日本大震災]
来月半ば、私は再び岩手県に出向いてきます。このブログでも情報掲載している通り、釣りイベント『集まれ浄土ヶ浜Vol.2』のスタッフとして現地に赴く。準備段階から多方面で奮闘している現地スタッフの負担を少しでも軽くしてあげたいし、何より参加して下さる人達に楽しんで欲しい。
しかし今回、自分にはもう1つ目的がある。
自分は現地で開催されているロックフィッシュの年間トーナメントの今年度のメインスポンサーを買って出ました。昨年は釣り客が来なかったために開催されなかったこの年間トーナメント。自分は逆に、このトーナメントを利用して釣り客を呼び、現地を活性化させていきたいと考えたのです。
個人スポンサーといえど、賞品は見た人の物欲をそそるような立派なものを出します。そうでなければ参加したいという意欲も沸かないでしょうから。ここでちょっとばかり手の内を見せておくと、こんなものとか、アブガルシアのベイトリールも2台出します。その他、現在はあれこれと画策中といったところで、1~5位の人には賞品を出したい考えでした。
とはいえ、このプランが必ずしも成功するとは限らない。何せ、昨年度は釣り客が来なかったために実施されなかったものだし、普段は釣り客が本当に来ないというのは昨年夏に現地視察に行き、私自身も痛感してきている。だから完全に企画倒れに終わってしまうかもしれないし、或いは継続的に何年間も続けていかないと結果に結び付かないものなのかもしれない。
でもだからこそ、今年は個人で名乗りを上げた。失敗する可能性がある以上は、あちこちに協賛依頼なんて出せない。
しかしこのたび、このロックフィッシュ年間トーナメントに協賛すると申し出てくれる企業、及び個人アングラーが現れました。もちろん自分からは頼んでいないし、お断りもしたつもり。もし集客できなかった時のことを考えると、申し訳なくてとても協賛品なんて受け取れない。
ですが、特に個人協賛の方は「絶対に受け取ってもらいますからね!」ということだったので、ありがたく頂戴することにしました。
株式会社ギル様
センドウタカシ(ニンジャ)様
どうもありがとうございます m(_ _)m。
これで、5位以内に入賞できなかった方にも賞品配布できる可能性が出てきました。
ということで、大会協賛が1社2個人ということになりましたので、私の単独スポンサーというわけではなくなりました。これはもう、絶対に成功させなきゃいけないな。
しかし今回、自分にはもう1つ目的がある。
自分は現地で開催されているロックフィッシュの年間トーナメントの今年度のメインスポンサーを買って出ました。昨年は釣り客が来なかったために開催されなかったこの年間トーナメント。自分は逆に、このトーナメントを利用して釣り客を呼び、現地を活性化させていきたいと考えたのです。
個人スポンサーといえど、賞品は見た人の物欲をそそるような立派なものを出します。そうでなければ参加したいという意欲も沸かないでしょうから。ここでちょっとばかり手の内を見せておくと、こんなものとか、アブガルシアのベイトリールも2台出します。その他、現在はあれこれと画策中といったところで、1~5位の人には賞品を出したい考えでした。
とはいえ、このプランが必ずしも成功するとは限らない。何せ、昨年度は釣り客が来なかったために実施されなかったものだし、普段は釣り客が本当に来ないというのは昨年夏に現地視察に行き、私自身も痛感してきている。だから完全に企画倒れに終わってしまうかもしれないし、或いは継続的に何年間も続けていかないと結果に結び付かないものなのかもしれない。
でもだからこそ、今年は個人で名乗りを上げた。失敗する可能性がある以上は、あちこちに協賛依頼なんて出せない。
しかしこのたび、このロックフィッシュ年間トーナメントに協賛すると申し出てくれる企業、及び個人アングラーが現れました。もちろん自分からは頼んでいないし、お断りもしたつもり。もし集客できなかった時のことを考えると、申し訳なくてとても協賛品なんて受け取れない。
ですが、特に個人協賛の方は「絶対に受け取ってもらいますからね!」ということだったので、ありがたく頂戴することにしました。
株式会社ギル様
センドウタカシ(ニンジャ)様
どうもありがとうございます m(_ _)m。
これで、5位以内に入賞できなかった方にも賞品配布できる可能性が出てきました。
ということで、大会協賛が1社2個人ということになりましたので、私の単独スポンサーというわけではなくなりました。これはもう、絶対に成功させなきゃいけないな。
次の一歩へ・8 [東日本大震災]
昨年の12月に開催されるはずだった「集まれ浄土ヶ浜Vol.2」。岩手県宮古市で行われる釣りのイベントでした。私もスタッフとして出向く予定があった。しかし直前の地震、津波警報も発令された。イベントの中止は妥当な判断だったと思う。
まだ主催者からの発表がされていないのでここに詳細を記すことは避けますが、このイベントが近く開催されることが決定しています。今回は私も運営スタッフとして事前準備段階から関わって色々と動いています。近いうちにこのブログでも詳細発表できると思います。もちろん、当日は現地に出向く予定です。
前回(2011年)、このイベントには400人を超える参加者が集まりました。そして中止となった昨年12月も、釣り大会の参加申し込みは早々に定員に達してしまった。自分は正直驚いたのです。いかんせん場所が場所だし、開催時期も屋外のイベントをやるにしては寒すぎる。普通に考えたら、とても人が集まるようなイベントには思えなかった。しかし、蓋を開けてみたらそうではなかった。
話を聞くと、震災以降釣りをするのはこのイベントが初めてだという人がいた。そうか、このイベントは震災によって釣りを自粛していた人達に再開するきっかけを与えてくれたものだったのかもしれない。参加人数云々も大事だけれどこのイベントにはもっと大きな意義があったのに違いない、そう思いました。
ところがそれ以降、現地を訪れる釣り人が増えたという話は聞きませんでした。観光客は来るようになったが、、釣り人が来ないと言われた。これはきっと、釣りを再開するきっかけを得たのには違いないけれど、その後の釣行に二の足を踏んでいるのではないかと思いました。確かに大勢の人が集まる釣り大会ならば釣りをするのに何の問題もない。しかし海岸線は依然として津波の痕跡が残っており、工事が続いているところも多い。雰囲気的には釣りをしづらい。かといって、しょっちゅう釣り大会を開くというわけにもいかない。どうしたらいい?
そんな折、自分に1つの考えが生まれた。岩手在住のアングラー数名にその構想を打ち明けたところ、おおむね賛同する意見をもらうことも出来た。現地で下話まで進めてくれたN嶋さんにも深く感謝している。ここまで来たら自分も決して後には退かない。
私が目を付けたのは、現地で2005年から開催されているロックフィッシュの年間トーナメント。しかし、震災以降に客足が遠のいてしまったことで2012年は開催されていませんでした。このまま放っておいたら消滅してしまうかもしれない。自分自身がロックフィッシュトーナメントを開催することは出来ないけれど、元々地元で開催されていたロックフィッシュの年間トーナメントを復活させたい。そしてこのトーナメントを盛り上げ、現地を訪れる釣り人を増やしたい。
各社のメーカー協賛などがいただけるとありがたいのだけれども、成功の確約がない段階でそれをお願いするわけにはいかない。
でもそこで二の足を踏んでいては何も始まらない。そこでこの構想を具現化させるため、今年度は私個人がこのトーナメントへのスポンサードを名乗り出ようと思う。早い話が、自分が賞品を準備しようと考えています。ショボいものなんか出さない!チャプタートーナメント並の賞品は出すつもりでいます。でないと、盛り上がりには繋がらないでしょう。
とはいえまだ未定の事項も多いし、何より私自身が主催者側とも色々な話をしながら進めていかなくてはなりません。ただ、やると決めた以上は必ずやります。
最初は上手くいかないかもしれない。でもきっと成功で終わらせてみせる。東北の海に釣り人を呼び戻す、数年後にはきっとそれが実現出来ていると信じている。
まだ主催者からの発表がされていないのでここに詳細を記すことは避けますが、このイベントが近く開催されることが決定しています。今回は私も運営スタッフとして事前準備段階から関わって色々と動いています。近いうちにこのブログでも詳細発表できると思います。もちろん、当日は現地に出向く予定です。
前回(2011年)、このイベントには400人を超える参加者が集まりました。そして中止となった昨年12月も、釣り大会の参加申し込みは早々に定員に達してしまった。自分は正直驚いたのです。いかんせん場所が場所だし、開催時期も屋外のイベントをやるにしては寒すぎる。普通に考えたら、とても人が集まるようなイベントには思えなかった。しかし、蓋を開けてみたらそうではなかった。
話を聞くと、震災以降釣りをするのはこのイベントが初めてだという人がいた。そうか、このイベントは震災によって釣りを自粛していた人達に再開するきっかけを与えてくれたものだったのかもしれない。参加人数云々も大事だけれどこのイベントにはもっと大きな意義があったのに違いない、そう思いました。
ところがそれ以降、現地を訪れる釣り人が増えたという話は聞きませんでした。観光客は来るようになったが、、釣り人が来ないと言われた。これはきっと、釣りを再開するきっかけを得たのには違いないけれど、その後の釣行に二の足を踏んでいるのではないかと思いました。確かに大勢の人が集まる釣り大会ならば釣りをするのに何の問題もない。しかし海岸線は依然として津波の痕跡が残っており、工事が続いているところも多い。雰囲気的には釣りをしづらい。かといって、しょっちゅう釣り大会を開くというわけにもいかない。どうしたらいい?
そんな折、自分に1つの考えが生まれた。岩手在住のアングラー数名にその構想を打ち明けたところ、おおむね賛同する意見をもらうことも出来た。現地で下話まで進めてくれたN嶋さんにも深く感謝している。ここまで来たら自分も決して後には退かない。
私が目を付けたのは、現地で2005年から開催されているロックフィッシュの年間トーナメント。しかし、震災以降に客足が遠のいてしまったことで2012年は開催されていませんでした。このまま放っておいたら消滅してしまうかもしれない。自分自身がロックフィッシュトーナメントを開催することは出来ないけれど、元々地元で開催されていたロックフィッシュの年間トーナメントを復活させたい。そしてこのトーナメントを盛り上げ、現地を訪れる釣り人を増やしたい。
各社のメーカー協賛などがいただけるとありがたいのだけれども、成功の確約がない段階でそれをお願いするわけにはいかない。
でもそこで二の足を踏んでいては何も始まらない。そこでこの構想を具現化させるため、今年度は私個人がこのトーナメントへのスポンサードを名乗り出ようと思う。早い話が、自分が賞品を準備しようと考えています。ショボいものなんか出さない!チャプタートーナメント並の賞品は出すつもりでいます。でないと、盛り上がりには繋がらないでしょう。
とはいえまだ未定の事項も多いし、何より私自身が主催者側とも色々な話をしながら進めていかなくてはなりません。ただ、やると決めた以上は必ずやります。
最初は上手くいかないかもしれない。でもきっと成功で終わらせてみせる。東北の海に釣り人を呼び戻す、数年後にはきっとそれが実現出来ていると信じている。
2013-03-11 [東日本大震災]
3.11。2年前のこの日は多くの人の人生を変えた。
両親も九州出身ということもあって、自分には東北地方の親戚はいない。若い頃にスキーに行ったり、裏磐梯でバス釣りなどをしたことはあるが、基本的に自分にとって東北地方はあまり馴染みのない土地だった。
でも今は違う。常に東北の人達への想いが自分の心の中にある。仕事という責任を負わされている立場でなかったら、今頃きっと自分は東北人になっていただろう。
自分は周囲と比べてかなり浮いている方だ。自分の周りには、ある程度自分を犠牲にしてでも他人を助けたいという想いを持つ人間はいない。でもおそらく、関東圏に住むほとんどの人はそんなものなんだろう。だから自分にとって、今の環境はとても居心地が悪いのだ。本来いるべき場所ではないのに違いない。
それがしっくりくる場所は被災地にあった。おそらくは私と同じように日常生活では周囲から多少浮いているのであろう人達がそこに結集していた。見返りなんて何もないのに、来るだけでもお金が掛かるのに、時間も労力も費やす羽目になるのに、それでも好き好んで被災地に集ってきている人達がいた。
馬鹿だなぁ、自分は人のこと言えないけれど。でも自分はそんな人達が大好きだ。同じ想いを持った人達とは何かしっくりくる。心の底からの仲間意識を共有できる人達だと思った。
そんな彼らも、そして自分も、今はそれぞれの生活へと戻った。居心地の悪い世界へと戻ってきた。復興が遅れていると言われる被災地。確かに復興が進んでいるとは言い難い地域も依然として数多い。けれどもそこにはもう、同じ想いを共有する人達が集う場所はない。とりあえず、私達はある程度の役目を終えた。それはきっと多少なりとも復興が進んだ証でもあるのだろう。であれば、これは私達にとって本望とも言えるべきものであるはずだ。
でも自分の中で何か釈然としないものがあるのはなぜだろう。
それはきっと自分が被災地の住民を少なからず知っているからだろう。まだ終わりにしていい時期じゃない。自分の目で見てきているからこそそう思えるのだ。
用意された場所はもうない。これからは自分の力で行くべき場所を作っていかなくてはいけないのかもしれない。でも自分はやる。終わりにしていいと思えないからだ。
両親も九州出身ということもあって、自分には東北地方の親戚はいない。若い頃にスキーに行ったり、裏磐梯でバス釣りなどをしたことはあるが、基本的に自分にとって東北地方はあまり馴染みのない土地だった。
でも今は違う。常に東北の人達への想いが自分の心の中にある。仕事という責任を負わされている立場でなかったら、今頃きっと自分は東北人になっていただろう。
自分は周囲と比べてかなり浮いている方だ。自分の周りには、ある程度自分を犠牲にしてでも他人を助けたいという想いを持つ人間はいない。でもおそらく、関東圏に住むほとんどの人はそんなものなんだろう。だから自分にとって、今の環境はとても居心地が悪いのだ。本来いるべき場所ではないのに違いない。
それがしっくりくる場所は被災地にあった。おそらくは私と同じように日常生活では周囲から多少浮いているのであろう人達がそこに結集していた。見返りなんて何もないのに、来るだけでもお金が掛かるのに、時間も労力も費やす羽目になるのに、それでも好き好んで被災地に集ってきている人達がいた。
馬鹿だなぁ、自分は人のこと言えないけれど。でも自分はそんな人達が大好きだ。同じ想いを持った人達とは何かしっくりくる。心の底からの仲間意識を共有できる人達だと思った。
そんな彼らも、そして自分も、今はそれぞれの生活へと戻った。居心地の悪い世界へと戻ってきた。復興が遅れていると言われる被災地。確かに復興が進んでいるとは言い難い地域も依然として数多い。けれどもそこにはもう、同じ想いを共有する人達が集う場所はない。とりあえず、私達はある程度の役目を終えた。それはきっと多少なりとも復興が進んだ証でもあるのだろう。であれば、これは私達にとって本望とも言えるべきものであるはずだ。
でも自分の中で何か釈然としないものがあるのはなぜだろう。
それはきっと自分が被災地の住民を少なからず知っているからだろう。まだ終わりにしていい時期じゃない。自分の目で見てきているからこそそう思えるのだ。
用意された場所はもうない。これからは自分の力で行くべき場所を作っていかなくてはいけないのかもしれない。でも自分はやる。終わりにしていいと思えないからだ。
被災地を想う [東日本大震災]
昨年の夏に岩手県にボランティア活動に出向いた際、私は過去に宿泊したことのあるホテルに宿泊していたのですが、他のボランティアの人達はその多くがとある無料宿泊施設を利用していました。それは同じ岩手県の盛岡市がボランティアの受け入れ施設として、廃校となった高校の宿舎を利用して無料開放していた施設でした。岩手県沿岸部に出向くボランティアの多くは、この施設をベースに活動をしていた人が多かったようです。
私も次回出向く機会があれば利用したいと考えていました。同じ志を持つ人が集まっているのでしょうからきっと有意義な情報交換等も行うことが出来たでしょう。
しかし先日、この施設が3月中に閉所するという話が入ってきました。非常に残念に思うところがありますが、実際にこの施設をベースにして活動をしてきた人にしてみればより一層強い思いがあるのではと察します。
震災より間もなく2年が経とうとしています。当初は瓦礫の撤去や家屋の泥出し、引越し作業の手伝い、側溝の清掃といった内容が多かったですが、避難所が閉鎖され多くの住民が仮設住宅へと移り、その生活もとりあえずは落ち着くとともにボランティアの活動内容も変わっていきました。現在では被災者の心のケアであったり、楽しませたり、教室を開いて意義ある時間を過ごしてもらったり、というプログラム制にシフトしています。現在ではそうしたプログラム内容を組める人でないとボランティア自体の受け入れをしてもらえない地域もある。
もっとも、ボランティアの需要がなくなってきているという事は、ある意味望ましいことでもあります。それだけ被災地が立ち直ってきているということの証でもあるわけですから。でも何だか、ちょっぴり寂しい気持ちにもなります。
そのような状況下ではあるものの、一方では依然として復興が遅れている地域もあると聞く。それは確かに間違いのないところです。そうした地域の多くは、何もなくなってしまったかのような光景が広がっています。震災後は瓦礫の山だったものがボランティアや行政などによって片付けられた結果、ただの土地だけが残っているのです。そこには元々何があったのかさえもわからないほどに。
とある仮設住宅の方が自分にこんなことを話してくれたのを思い出す。「先日、震災後初めて自分の家があった場所を見に行ったけれど、そこは見渡す限り何もない場所が広がっていて、果たして自分の家がどこにあったのかさえわからなかった」
ボランティアは、瓦礫などを片付けたり、不要となったものを取り壊したり、泥掻きや草刈などをして綺麗にすることは出来る。でも、そこまでです。そこに新たに何かを建設したりすることは出来ないのだから。だからそれ以上の復興に関しては、ボランティアではどうすることも出来ない。
何を以って被災地が復興したと定義することが出来るのか。元の街並みが戻れば良い?でも津波が到達した土地に再度建築物を建てるのはリスクがある。躊躇するのが当然です。となれば、元の街並みに戻るかどうかというのは経済上の理由だけに留まりません。
では、高台に住宅地や街が出来れば良いのか。しかし高台となると坂道が多くなり、高齢者には外出するのがきつくなる。海沿いのように風が吹かないため、夏には暑い(現地の人がそうおっしゃっていた)。安全性は高いといえ、決して住みやすい土地とは言いがたい。
5年後、そして10年後。その頃にはもう震災の事が語られる機会はほとんど無くなっているかもしれない。ただ、街並みは震災前とは全く異なっているだろうし、家や家族を失った人の生活環境が元に戻っているはずはない。仮設住宅に住んでいた人達は退去させられバラバラになっているだろうし、仮設住宅がなくなった段階でボランティア活動もほぼその任務を終了となっているでしょう。
でも、被災者の生活が一番厳しくなるのはそれからかもしれない。ただでさえ雇用のニーズが低い状況に加えて高齢者の方が収入源を得るのはかなり難しいと言える。しかし、仮設住宅を出ればおのずと経済的な負担は増える。何から何まで自分自身でやっていかなくてはならない。もうボランティアのような助けも来ない。経済的にも心理的にもかなり厳しくなるだろう。
避難所は、被災者に直接手を差し伸べられた。仮設住宅は、社協を通じ手を差し伸べられた。それぞれ生活環境として望ましいわけではなかったものの、外部の人が手を差し伸べられる範疇にあるという点は悪くない。今後、被災者に手を差し伸べられることが出来なくなった時が一番心配だと自分は思っている。
私も次回出向く機会があれば利用したいと考えていました。同じ志を持つ人が集まっているのでしょうからきっと有意義な情報交換等も行うことが出来たでしょう。
しかし先日、この施設が3月中に閉所するという話が入ってきました。非常に残念に思うところがありますが、実際にこの施設をベースにして活動をしてきた人にしてみればより一層強い思いがあるのではと察します。
震災より間もなく2年が経とうとしています。当初は瓦礫の撤去や家屋の泥出し、引越し作業の手伝い、側溝の清掃といった内容が多かったですが、避難所が閉鎖され多くの住民が仮設住宅へと移り、その生活もとりあえずは落ち着くとともにボランティアの活動内容も変わっていきました。現在では被災者の心のケアであったり、楽しませたり、教室を開いて意義ある時間を過ごしてもらったり、というプログラム制にシフトしています。現在ではそうしたプログラム内容を組める人でないとボランティア自体の受け入れをしてもらえない地域もある。
もっとも、ボランティアの需要がなくなってきているという事は、ある意味望ましいことでもあります。それだけ被災地が立ち直ってきているということの証でもあるわけですから。でも何だか、ちょっぴり寂しい気持ちにもなります。
そのような状況下ではあるものの、一方では依然として復興が遅れている地域もあると聞く。それは確かに間違いのないところです。そうした地域の多くは、何もなくなってしまったかのような光景が広がっています。震災後は瓦礫の山だったものがボランティアや行政などによって片付けられた結果、ただの土地だけが残っているのです。そこには元々何があったのかさえもわからないほどに。
とある仮設住宅の方が自分にこんなことを話してくれたのを思い出す。「先日、震災後初めて自分の家があった場所を見に行ったけれど、そこは見渡す限り何もない場所が広がっていて、果たして自分の家がどこにあったのかさえわからなかった」
ボランティアは、瓦礫などを片付けたり、不要となったものを取り壊したり、泥掻きや草刈などをして綺麗にすることは出来る。でも、そこまでです。そこに新たに何かを建設したりすることは出来ないのだから。だからそれ以上の復興に関しては、ボランティアではどうすることも出来ない。
何を以って被災地が復興したと定義することが出来るのか。元の街並みが戻れば良い?でも津波が到達した土地に再度建築物を建てるのはリスクがある。躊躇するのが当然です。となれば、元の街並みに戻るかどうかというのは経済上の理由だけに留まりません。
では、高台に住宅地や街が出来れば良いのか。しかし高台となると坂道が多くなり、高齢者には外出するのがきつくなる。海沿いのように風が吹かないため、夏には暑い(現地の人がそうおっしゃっていた)。安全性は高いといえ、決して住みやすい土地とは言いがたい。
5年後、そして10年後。その頃にはもう震災の事が語られる機会はほとんど無くなっているかもしれない。ただ、街並みは震災前とは全く異なっているだろうし、家や家族を失った人の生活環境が元に戻っているはずはない。仮設住宅に住んでいた人達は退去させられバラバラになっているだろうし、仮設住宅がなくなった段階でボランティア活動もほぼその任務を終了となっているでしょう。
でも、被災者の生活が一番厳しくなるのはそれからかもしれない。ただでさえ雇用のニーズが低い状況に加えて高齢者の方が収入源を得るのはかなり難しいと言える。しかし、仮設住宅を出ればおのずと経済的な負担は増える。何から何まで自分自身でやっていかなくてはならない。もうボランティアのような助けも来ない。経済的にも心理的にもかなり厳しくなるだろう。
避難所は、被災者に直接手を差し伸べられた。仮設住宅は、社協を通じ手を差し伸べられた。それぞれ生活環境として望ましいわけではなかったものの、外部の人が手を差し伸べられる範疇にあるという点は悪くない。今後、被災者に手を差し伸べられることが出来なくなった時が一番心配だと自分は思っている。
今年やり残したこと、そして2013年に向けて [東日本大震災]
2012年、被災地支援にさらなる力を入れるという強い思いを持ち、新年を迎えました。
この時、自分には実現させようとしていたプランがありました。被災地に複数のFRPボートを提供すること。それはきっと観光客や釣り客を呼び戻すための糧となると思ったからです。熟考を重ね、現地でのニーズを確認し、経費を算段し、いよいよ実行に移す時が来たと思った。
けれどもそれを実現させることは出来ませんでした。震災から1年半が経った時点において、現地でそれを必要とするまでの状況に至っていなかった。未だに釣り客がほとんど来ない。厳しい現実がそこにはありました。
ニーズのないものを支援しても仕方がない。これに関しては結果を急がず、今後も長期的に被災地の状況を見守り続け、ボートに限らず何か需要が見出せるのならば出来る限りの支援をしていくという事にしました。
では今年、自分は被災地に対して何が出来たのか?もちろん、ある程度達成したものもある。それは自分にしてみれば特に難易度の高いことではない、釣具の支援などでした。来春以降、きっと現地で役立ってくれることと思います。でも、こんなことはお金さえ注ぎ込んでしまえばすぐに出来ることでもありました。もっと早くこのニーズを掴むべきでした。
また、私自身初めての経験でしたが仮設住宅でのボランティア活動にも従事しました。でも果たして自分が住民の方々の助けになれたかというと、それはなれなかったと思う。他人へのケアという面に対して自分はあまりにも素人すぎた。何より、家や家族を失った被災者の方を実際に目の前にした時の現実感に自分自身が折れそうになる。家族を失い独りになってしまった高齢者が寂しそうに部屋に帰っていく後姿が忘れられない。自分が何かしてあげられるなら、そうしてあげたい。でも、どんなにそれを強く思っても、一体何をしてあげたら良いのかその答えが見つからなかった。
その後、私が足を運んだ宮古市ではボランティアの受付対応が変わりプログラム制が導入されました。これはどういうことなのかというと、住民の方々に楽しんでもらえるプログラム(教室など)を組める人・団体のみ、ボランティアを受け入れるというスタンスに変わったということです。住民の方々に喜んでもらえるような特技のない自分は、もうここに加わることは難しいでしょう。
ただ、同じ志を持つボランティアが全国各地からこんなにも集まってきているという事は自分にとってとても大きな励みになったし、その輪の中に自分を置くことが出来たことにはある種の喜びさえも感じました。
実は今年、実現出来なかった事が2つあります。
1つは、2回目となる「集まれ浄土ヶ浜」イベントが直前の地震により延期になってしまったこと。しかしこれは春に開催される見込みですのでその際には必ず参加したいと思っています。
そしてもう1つ。私の提案で、某雑誌社さんに岩手沿岸部での釣りを取り上げていただくことになっていたのですが、これも荒天により取材が来春に持ち越されてしまったのです。この取材は1回限りでなく、数年間は継続的に協力していただけることになっています。
被災地の沿岸部ではまだ釣りが出来る環境が整っていない、そして雰囲気的な理由もあって釣りを再開していない人がいます。集まれ浄土ヶ浜はそうした人達に「きっかけ」を。雑誌の記事は「釣りがしやすい雰囲気作り」を。そしてそれぞれ「現地での釣りの盛り上がり」をもたらしてくれるものになると信じています。
まずは、限られた場所だけでもいい。釣りを再開しようかと思った人が何の躊躇もなく足を運べる環境と雰囲気があればいい。あとはそこから少しずつでもあちこちに波及していって、やがては釣りが盛んな状態に戻ればいい。他県からも人が来るようになれば、多少は現地の復興にもなるでしょう。
結果から見れば、今年は大した成果を上げられなかった。でも、完全なボツじゃない。来年以降に繋がっているものがある。不完全燃焼の思いは前向きな力に変えて来年にぶつけていきます!
この時、自分には実現させようとしていたプランがありました。被災地に複数のFRPボートを提供すること。それはきっと観光客や釣り客を呼び戻すための糧となると思ったからです。熟考を重ね、現地でのニーズを確認し、経費を算段し、いよいよ実行に移す時が来たと思った。
けれどもそれを実現させることは出来ませんでした。震災から1年半が経った時点において、現地でそれを必要とするまでの状況に至っていなかった。未だに釣り客がほとんど来ない。厳しい現実がそこにはありました。
ニーズのないものを支援しても仕方がない。これに関しては結果を急がず、今後も長期的に被災地の状況を見守り続け、ボートに限らず何か需要が見出せるのならば出来る限りの支援をしていくという事にしました。
では今年、自分は被災地に対して何が出来たのか?もちろん、ある程度達成したものもある。それは自分にしてみれば特に難易度の高いことではない、釣具の支援などでした。来春以降、きっと現地で役立ってくれることと思います。でも、こんなことはお金さえ注ぎ込んでしまえばすぐに出来ることでもありました。もっと早くこのニーズを掴むべきでした。
また、私自身初めての経験でしたが仮設住宅でのボランティア活動にも従事しました。でも果たして自分が住民の方々の助けになれたかというと、それはなれなかったと思う。他人へのケアという面に対して自分はあまりにも素人すぎた。何より、家や家族を失った被災者の方を実際に目の前にした時の現実感に自分自身が折れそうになる。家族を失い独りになってしまった高齢者が寂しそうに部屋に帰っていく後姿が忘れられない。自分が何かしてあげられるなら、そうしてあげたい。でも、どんなにそれを強く思っても、一体何をしてあげたら良いのかその答えが見つからなかった。
その後、私が足を運んだ宮古市ではボランティアの受付対応が変わりプログラム制が導入されました。これはどういうことなのかというと、住民の方々に楽しんでもらえるプログラム(教室など)を組める人・団体のみ、ボランティアを受け入れるというスタンスに変わったということです。住民の方々に喜んでもらえるような特技のない自分は、もうここに加わることは難しいでしょう。
ただ、同じ志を持つボランティアが全国各地からこんなにも集まってきているという事は自分にとってとても大きな励みになったし、その輪の中に自分を置くことが出来たことにはある種の喜びさえも感じました。
実は今年、実現出来なかった事が2つあります。
1つは、2回目となる「集まれ浄土ヶ浜」イベントが直前の地震により延期になってしまったこと。しかしこれは春に開催される見込みですのでその際には必ず参加したいと思っています。
そしてもう1つ。私の提案で、某雑誌社さんに岩手沿岸部での釣りを取り上げていただくことになっていたのですが、これも荒天により取材が来春に持ち越されてしまったのです。この取材は1回限りでなく、数年間は継続的に協力していただけることになっています。
被災地の沿岸部ではまだ釣りが出来る環境が整っていない、そして雰囲気的な理由もあって釣りを再開していない人がいます。集まれ浄土ヶ浜はそうした人達に「きっかけ」を。雑誌の記事は「釣りがしやすい雰囲気作り」を。そしてそれぞれ「現地での釣りの盛り上がり」をもたらしてくれるものになると信じています。
まずは、限られた場所だけでもいい。釣りを再開しようかと思った人が何の躊躇もなく足を運べる環境と雰囲気があればいい。あとはそこから少しずつでもあちこちに波及していって、やがては釣りが盛んな状態に戻ればいい。他県からも人が来るようになれば、多少は現地の復興にもなるでしょう。
結果から見れば、今年は大した成果を上げられなかった。でも、完全なボツじゃない。来年以降に繋がっているものがある。不完全燃焼の思いは前向きな力に変えて来年にぶつけていきます!
水郷のいま。新利根川 [東日本大震災]
本日は新利根川に行ってきました。新利根川は震災の被害が大きく、土手や側道の工事もかなり長引いていましたので、個人的にここでの釣りをしばらく自粛していました。ですが、少し前に視察したところ工事もほぼ終わっていましたので、各所がどのように変わったのかを確認する意味も兼ねて出掛けてきたというわけです。
肝心の釣果は・・・ボウズ。スパイニーアックスで1バイトを得ましたがスッポ抜けて終了。ここのところどうしようもなく絶不調です。釣行内容的には特に書くことがないので、各所の現在の状況を震災後の状況と照らし合わせて報告します。
【柴崎橋上流】
堰の上流といった方がわかりやすいかもしれません。元々は傾斜のきつい護岸でした。さらにヨシやら野バラなどが生い茂っていたので岸釣りはかなりやりにくかった場所です。
震災では南岸の護岸もダメージがありましたが、特に北岸の護岸は傾斜のきつさゆえに雪崩のように崩れ落ちてしまいました。
その後工事がなされ、北岸南岸共ダメージの大きかった護岸が改修され、現在ではこのようになっています。
岸際は斜め護岸。そして水際にはH鋼が入りました。魚を抜き上げられるタックルならともかく、このH鋼は魚をランディングするのに大きな支障になりそうです。ヘラブナ釣りなどはもうどうしようもないでしょう。それ以前にこの護岸、傾斜が急だし、ブロック状になってはいますが凹凸が浅く足を掛けられません。もちろん掴まる所もないし、軽く足を滑らせると間違いなく落水します。パッと見、足場がいい場所に見えますがここはかなり危険!
【新橋下流】
下の写真では既に工事に着工されていますが、土手および側道にかなりのダメージを受けたところです。ここは元々はアシが生えており、部分的に矢板が入っていました。
それが現在ではこのようになりました。
チョコレート護岸とも言いますが、厳密に言うと根固ブロックというものを敷き詰められたものです。北岸はこれが水中まで続いています。この根固ブロック、テトラ(消波ブロック)と同様に色々なメーカーの色々なかたちがあるのですが新橋下流に入れられた根固ブロックは南岸と北岸で異なるものが入れられています。
北岸に入れられたものは足を掛けられません。上に立つと非常に不安定です。傾斜が急であるのも災いして、落水の危険性が大と言えます。
一方、南岸に入れられた根固ブロックは中央に大きな穴があるのでここに足を掛けていけば上り下りには不自由しません。ただ、歩きやすいものではないので転倒注意。
いずれにせよ、現在でこそ根固ブロックが露出していますがおそらく来年の夏にはここも草茫々になるでしょう。根固ブロックというのはブロック間に意図的に隙間が空けてあります。わざと隙間から植物が生えるようになっているのです。小野川上流部や根古名川、長島川などもそうですね。
【ミズヒマワリ】
駆除されて一時期ほとんど姿を消したミズヒマワリがここにきて復活してきています。コロニーの規模はまだ小さいですが、区間によってはいたるところに見られることから、早めに駆除しないとまた数年のうちに大増殖すると思います。
【ゴロタ石】
工事の関係で川にゴロタ石が入れられた場所がいくつかあります。あまり沖までは入っていないはずです。また、地震自体の影響なのか工事で埋められたものなのかわかりませんがだいぶ水深が浅くなった場所が多くなった気がします。
【崩れ護岸】
おおよそ工事が終わっているとはいえ、まだこのように崩れたままの護岸もあります。十分ご注意下さい。
肝心の釣果は・・・ボウズ。スパイニーアックスで1バイトを得ましたがスッポ抜けて終了。ここのところどうしようもなく絶不調です。釣行内容的には特に書くことがないので、各所の現在の状況を震災後の状況と照らし合わせて報告します。
【柴崎橋上流】
堰の上流といった方がわかりやすいかもしれません。元々は傾斜のきつい護岸でした。さらにヨシやら野バラなどが生い茂っていたので岸釣りはかなりやりにくかった場所です。
震災では南岸の護岸もダメージがありましたが、特に北岸の護岸は傾斜のきつさゆえに雪崩のように崩れ落ちてしまいました。
その後工事がなされ、北岸南岸共ダメージの大きかった護岸が改修され、現在ではこのようになっています。
岸際は斜め護岸。そして水際にはH鋼が入りました。魚を抜き上げられるタックルならともかく、このH鋼は魚をランディングするのに大きな支障になりそうです。ヘラブナ釣りなどはもうどうしようもないでしょう。それ以前にこの護岸、傾斜が急だし、ブロック状になってはいますが凹凸が浅く足を掛けられません。もちろん掴まる所もないし、軽く足を滑らせると間違いなく落水します。パッと見、足場がいい場所に見えますがここはかなり危険!
【新橋下流】
下の写真では既に工事に着工されていますが、土手および側道にかなりのダメージを受けたところです。ここは元々はアシが生えており、部分的に矢板が入っていました。
それが現在ではこのようになりました。
チョコレート護岸とも言いますが、厳密に言うと根固ブロックというものを敷き詰められたものです。北岸はこれが水中まで続いています。この根固ブロック、テトラ(消波ブロック)と同様に色々なメーカーの色々なかたちがあるのですが新橋下流に入れられた根固ブロックは南岸と北岸で異なるものが入れられています。
北岸に入れられたものは足を掛けられません。上に立つと非常に不安定です。傾斜が急であるのも災いして、落水の危険性が大と言えます。
一方、南岸に入れられた根固ブロックは中央に大きな穴があるのでここに足を掛けていけば上り下りには不自由しません。ただ、歩きやすいものではないので転倒注意。
いずれにせよ、現在でこそ根固ブロックが露出していますがおそらく来年の夏にはここも草茫々になるでしょう。根固ブロックというのはブロック間に意図的に隙間が空けてあります。わざと隙間から植物が生えるようになっているのです。小野川上流部や根古名川、長島川などもそうですね。
【ミズヒマワリ】
駆除されて一時期ほとんど姿を消したミズヒマワリがここにきて復活してきています。コロニーの規模はまだ小さいですが、区間によってはいたるところに見られることから、早めに駆除しないとまた数年のうちに大増殖すると思います。
【ゴロタ石】
工事の関係で川にゴロタ石が入れられた場所がいくつかあります。あまり沖までは入っていないはずです。また、地震自体の影響なのか工事で埋められたものなのかわかりませんがだいぶ水深が浅くなった場所が多くなった気がします。
【崩れ護岸】
おおよそ工事が終わっているとはいえ、まだこのように崩れたままの護岸もあります。十分ご注意下さい。