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13年 [東日本大震災]

昨年、コロナ禍明けで数年ぶりに陸前高田を訪問したのですが、その変わりように驚きました。

何箇所か自分が定期的に足を運んでいる岩手沿岸部においても、陸前高田はひときわその復興が遅れていると感じていました。いつまでたっても海沿いは更地が多く、ダンプカーが多く行き来している光景がそこにはあったのです。ですが昨年足を運んでみるとその様相は一変していました。

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特に驚いたのは、かつて自分も行方不明者の捜索活動に加わっていた古川沼周辺の変わりようでした。そこは復興記念公園という大きくて綺麗な施設に生まれ変わっていました。もっとも、その計画自体はかねてから知ってはいたのですが、いざ出来上がった施設を目の前にすると、その規模などに驚いてしまった。そしてそこには綺麗に整備された古川沼と、その周辺を歩いている大勢の観光客の姿がありました。

自分が現地のNPO団体と共に行方不明者の捜索をした際、その捜索場所は防潮堤の建設予定場所でした。防潮堤が出来上がる前にその場所を捜索しておきたいとのものでした。防潮堤が出来上がってしまったらその場所は二度と掘り起こすことが出来なくなるからです。

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周辺は津波によって地形自体が大きく変わってしまっていました。高田松原は1本の松を残して流失し、海外線は大きく削り取られ、古川沼も海の一部となりました(現在は防潮堤によって海岸線とは隔離されています)。現地には相当量の土砂も堆積していました。実際、1mほど掘り返した地点からも行方不明者のものかどうかはわかりませんがジャンパーなどが出てきたりした。

NPO団体による行方不明者捜索で掘り起こしていた場所はあくまで陸上に過ぎませんでした。入水まではしていなかった。古川沼の沼底自体は過去にダイバーによる潜水捜索も行われていますが、それとて沼底を深くまで掘り起こしたものではありません。まだ手を付け切れていない場所がある。

当時、陸前高田市では216名の行方不明者が居ました。現在では200名となっています。その多くは海に流されてしまった可能性が高いと言えるでしょう。でも自分は、まだこの沼底で眠っている人が居るかもしれないと思っているのです。どうにもできないことではあるのだけれど。

だから現地の慰霊塔で手を合わせる時には必ず「見付けられなくて申し訳ない」という思いで手を合わせるようにしています。

被災地が復興することは誰しもの願いであるのに違いありません。自分も心からそう願い、復興支援に力を注いできました。
その一方で、家族が戻らず時が止まったままの人もいます。その人達は周囲の復興が進むほどに、自分が周囲から取り残されてしまったような複雑な気持ちでいるような気がしてなりません。

震災から13年が経った今、現地の人達が皆分け隔てなく穏やかに暮らしていって欲しいと願わずにはいられないです。
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5/26~28 岩手訪問 [東日本大震災]

5/26~28にかけて2泊3日で岩手に出向いてきました。
定期的に岩手県には足を運ぶつもりでいたのですが、コロナ禍という想定外の要因が発生してしまったためかなり久し振りの訪問になってしまいました。

自分が行かなかった間に三陸道路が開通しました。これによって仙台から八戸まで無料で行くことが出来ます。今回初めて利用しましたが、車の流れもスムーズだったため思いのほか早い時間に宮古市に現地入りすることが出来ました。勿論、費用の面も多少抑えることが出来ます。

少し駅前の方面を散策してみましたが、以前と比べて歩いている人や開いている店が減ったような気がしました。その一方で幹線道路沿いにはチェーン店系の大型店舗などが増えているので一概には言えませんが、街中が少し寂しく感じられたのは事実です。数年前にコロナ禍で制限が掛かっている最中は街中を歩いている人もほとんどいなかったのだとか。そしてその間に営業を辞めてしまったお店も少なくはなかったのだそうです。

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27日は浄土ヶ浜マリンハウスさんを訪問。こちらもコロナ禍により観光客が激減して大打撃だったようですが、現在は物凄い人数の観光客が足を運ぶようになっているようで、その点ではだいぶ安心しました。

自分もボートを借りて釣りをしましたがノーヒットで終了。後から来た若い2人組のアングラーが居たのですが早々にグッドサイズのアイナメをキャッチ。キャッチするや否や、急いで桟橋に向かっていました。これはスタッフに検量をしてもらうため。つまりこの人達は最初から大物ダービーにエントリーをすることを念頭に置いて釣りをしていたという事になります。

浄土ヶ浜マリンハウスの大物ダービーは自分が発起人となってスタートさせたイベントです。現在自分は運営からは外れていますが、今でもこうして現地のアングラーに受け入れてもらっているという現状は嬉しいの一言でした。自分からは今年の協賛分としてベイライナーのロックフィッシュロッドを1本置いてきました。

28日は午前中にボートロックを楽しんだ後、陸前高田市内を見て回りました。数年間の間にだいぶ変わったという印象を持ちました。

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新しく追悼施設や資料館などを含めた立派な道の駅が出来上がっていました。奇跡の一本松もこの公園内の一部となっていました。そして自分が現地のNPOと一緒に行方不明者の捜索をしていた古川沼もすっかり綺麗に整備されていました。

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自分達が泥をさらって必死に行方不明者の捜索をしていた場所で、今では観光客が普通に歩いている。それが復興というものなのかもしれないけれど、当時の悲惨な光景を知っている身としては何とも言えない複雑な気持ちになりました。

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この道の駅にある追悼施設、そして離れた高台の上にある追悼施設。その両方で黙祷を行ってきました。それも今回の岩手訪問の目的の1つです。ここで手を合わせるのは今回で何度目だろう。

釣りの話はまた後日に。
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12年 [東日本大震災]

あれから12回目の3.11を迎えました。とても遊びに行く気になんてなれない日ですから、自宅に籠り、2:46には黙祷を捧げました。

ボランティアとして現地で活動をしていた自分ですが、被災地ではあまり子供達と接した経験がありません。自分が周っていた仮設住宅でも高齢者の方がほとんどでした。

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今では当時の子供達も成人し、地域の力になるような仕事に就いている人もいるようで、驚くと同時に立派な生き方だと感服の思いです。そして12年という時間が経ったことが何だか信じられない気持ちになります。

福島原発が爆発を起こし、もしかしたら東日本に人が住めなくなるんじゃないか?関東に居ながらにしても頻発する余震や輪番停電の中、ニュースを見ても不安材料ばかりで、この先の東日本はどうなってしまうんだろうという不安を感じていたのがつい先日のことのようです。とてもレジャーどころではないという状況に、自分は職を失うかもしれないという不安も充分現実味があるものでした。

あれから12年が経ち、今では総理大臣を始め、原発を推進しようという方向性に舵を切っていることに強い嫌悪感しかありません。原発の安全神話が完全に崩壊した12年前、当然の結果として世論は反原発が主流でしたし、以後の各政党も反原発を公約に掲げていました。
12年もの歳月が人々の記憶から当時の危機感を消し去り、政治も掌を反すように原発推進に舵を切り、事故の加害者とも言えるべき電力会社による料金設定が世論をも変えてしまうという嫌な現実を突きつけられている気がします。

隣国の原発にミサイルを撃ち込んだりする国があったり、近いうちに大きな地震が来る可能性が高まっていると言われる中、何か間違った方向に進んでいる気がしてならないです。

災害に対する日頃からの備えは出来ているか?もし地震に見舞われた時の避難経路は想定できているか?家族との連絡手段は決めてあるか?それらは各人がどれだけ災害に対する危機感を持っているかに掛かっていると思います。

12年の間に、日本という国は平和ボケが進んでしまったと感じます。12年前の3.11のことを記憶に留め続けることが大事だと思います。
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10年間の敬意を込めて [東日本大震災]

東日本大震災後、陸前高田市において復興支援活動などを行ってきた非営利NPO法人がこの3月末を以て活動を終えることとなったそうです。自分もこの団体を介して現地での捜索活動を行いました。

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陸前高田市は震災の遺構が多く、市街地が高台へと移ったこともあり海沿いは震災後と比べてさほど変わらない印象を受けます。かつて街があった場所は更地が広がり、依然として工事車両が行き交う。いきなりこの地に足を運んだらかなり衝撃を受けると思います。大きく復興が進んだ場所とは言い難い。

ですが10年という年月が経ち、被災地外の人達の関心が薄れ、さらにはコロナ禍が追い討ちをかけてボランティア活動も余儀なく自粛せざるを得なくなったようです。緊急事態宣言や越県移動の自粛要請などで県外から陸前高田に出向いて活動することがほとんど出来なくなってしまっていました。

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2019年の春までは行方不明者の捜索も続いていました。それが確実に結果に繋がってきたのかというと現実的には厳しいものがあったはずですが、まだ探してくれている人達がいるということ自体が家族の帰りを待つ被災者の人達にとってどれほどの希望であったことなのか、その重要性は自分も少しだけ知っているつもりです。

この団体は2011年の7月に設立されて、今日まで続いてきました。そもそもは本来ボランティアセンターを立ち上げるべき立場である地元の社会福祉協議会自体が津波で被災してしまったために外部の人達も加わってボランティアセンターを立ち上げたのち、その有志スタッフで業務を引き継いだ組織だそうです。主目的は勿論陸前高田の復興で、それがある程度達成された際にはおのずと解散が運命づけられていたのかもしれません。

この活動初期から、必ず捜索現場で見掛ける若い運営スタッフさんがいました。勿論、私が参加した際にも居ました。県外から参加のボランティアにも丁寧に作業の説明を行い、自らもスコップを手にして熱心に捜索活動をしていました。年齢的には当時20代半ば~後半といったところだったでしょうか。最後の捜索活動となった2019年の2月の現場写真にもこのスタッフの姿がありました。つまり、このスタッフは8年間に渡ってひたすら行方不明者の捜索にあたってきたということになります。

特定非営利活動法人の場合でも無給ということはないはずですが、陸前高田を離れて仕事に就くという選択肢もあったかと思いますし、収入面でもその方がきっとベターだったでしょう。そして10年ほどの年月があれば仕事の経験も積めるだろうし、会社内でもある程度の立場までは上がれると思います。自分自身の将来を考えた場合はその方が賢明な選択だったはずです。将来的には解散するであろう組織で10年を費やすよりは。

それでも10年間、陸前高田に留まり行方不明者の捜索を続ける人生を選ぶ。馬鹿だなぁと思います。けれども心の底から尊敬をします。自分にはとても出来ない。

自己犠牲を払う人というのは大抵その見返りを求めるような人ではないのだけれども、10年もの長期に渡って陸前高田市の復興に取り組んできた人達には、どうか明るい未来があって欲しいと願っています。彼らが被災者に与えてきた希望というのは本当に大きかったはずですし、その功績は大きく称えられて然るべきものだとも思っています。
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10年 [東日本大震災]

年を重ねると時間が過ぎるのが早く感じるようになると言います。そして自分もそれを実感するようになりました。もう10年が過ぎたのかと。10年という時の速さに驚いてしまう。
ということはこの先の10年もきっとアッという間に過ぎるでしょう。その時にはもう定年を迎えて仕事をリタイアしているのかもしれません。

昨年はコロナ禍で、そして2年前は経済的な理由で東北に行くことが出来ませんでした。震災以降、毎年足を運んでは少しずつ変わっていく街の様子や、知らない間にどんどん延伸されていく復興道路などを見てきました。コロナ禍の終息次第ですが、今年こそは足を運びたいと思っています。

自分は東北に親戚がいるわけでもなく、仲の良い知人が居たわけでもありません。元々は縁も所縁もない場所でした。

震災の被害を画面越しに見るにつけ、自分に何か出来ることはないのかと思いましたが、当時の自分にはその手段を見付けることが出来ませんでした。しかし2011年の12月、復興支援のイベントに協力を求められる機会がありました。元々は物品の協賛やブースの出展をお願いされたのですがあいにく会社としては大した協力が出来ませんでした。ですが個人的に運営を手伝わせて欲しいと願い出て、これを受け入れていただくことが出来ました。ここで初めて、岩手や宮城の人達との繋がりを持つことが出来ました。

震災から9ヶ月が経過していた岩手県宮古市。確かに海沿いの建物にはまだその痕跡が残っていたものの、街中はだいぶ綺麗になっており「ここが本当に津波に襲われた区域なのか?」と感じるほどでした。

しかし、現地の人達の口から発せられる経験談には言葉を失いました。この地域の人達には津波で身内を亡くされた人も普通に居るし、ほぼ全員が地獄のような光景を目にしている。遺体の安置所で数多くの遺体を確認し、身内の所在を探していたという人も何人もいました。都心で暮らしている人にはおおよそ想像もつかないような壮絶な経験をされてきているのだと知りました。水に対するトラウマを持っている人も少なくなかった。

そんな大変な経験をしてきた人達なのだけれども、他県からやってくる人間に対してはとにかく優しい。手厚くもてなそうという気持ちが強く伝わってきました。まずは自分の事よりも他の人の事を優先して考える。そんな人達が多いと感じました。こちらとしては現地の人達の力になりたいと思って足を運んだはずのに、こちらが逆に力をもらっている気さえしました。

だから自分は決めたのです。この地域の人達の力になろうと。

以後5年間に渡り、自分自身が企画した復興支援策を進めてきました。今では私の手を離れていますが、今でもちゃんと継続されているのが何より嬉しい。
私自身の災害ボランティアとしての活動もここからスタートしました。ある時は仮設住宅を周り、またある時は泊まり込みで行方不明者の捜索に加わったりもしました。だから自分は、被災者の人、遺族の人、仮設住宅で暮らしている人、行政サイドの人、病院の関係者、NPO法人の関係者、同志であるボランティアの人達など、現地に関わる大勢の人達と言葉を交わしてきました。ニュースなどでは報道されることのない現地の実情などにも多く触れる中で、自分は何をするべきか常に考えさせられてきました。

一番強く感じていたことは、何の落ち度もなく平穏に暮らしていた人達が一瞬にしてその日常を奪われてしまったという理不尽さです。その一方で(贅沢な暮らしはしていませんが)特に不自由なく暮らしている自分自身とのギャップにも大いに悩みました。罪悪感のようなものもあった。もっと被災者の人達に寄り添うべきなんじゃないかとも思いましたが、自分には仕事を辞めて東北に移り住むだけの根性と決断力はありませんでした。

とはいえ、被災地の住民全てが被災者というわけではないのです。津波が押し寄せた場所、到達しなかった場所、中には同じ地区内で大きく明暗が分かれた場所もありました。
津波が押し寄せた場所においては、家屋、家財道具、自家用車などあらゆるものを失います。行政支援なんて微々たるものです。これまで築いてきた財産を一気に失うことになります。当然、将来的な不安も付きまとう。一方、津波が到達しなかった地域の住民においては、現地のインフラが回復するとともに、ほどなく元の日常生活を取り戻すことが出来ていました。
避難場所~仮設住宅~復興住宅と周辺環境を大きく翻弄されて疲弊していく被災者の方と、非被災者との間の経済格差がどんどん拡がっていくのを強く感じていました。

自分はとある被災者の人からこのように言われたことがあります。
「災害は、まさか来ないだろうなんて考えていてはいけない。必ず来るものだと思って生活していって欲しい」
家族や自宅を失った人の言葉には重みがありました。
もしかしたらその言葉で自分の人生が大きく変わったかもしれない。リスク回避が出来たかもしれない。財産を失わずに済んだかもしれない。いただいた言葉を無駄にしないよう生きていこうと思っています。

10年というのは大きな節目ではあるけれども、ほんの通過点に過ぎません。これからもずっと、東北との繋がりを大事にしていきたい。自分はこれからも定期的に東北に足を運ぶつもりです。

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亡くなられた方には改めて追悼の意を表します。陸前高田の追悼施設にも行かなくては。
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9年 [東日本大震災]

自分は陸前高田市で行方不明者捜索のボランティア活動に加わっていたことがあります。
今でも陸前高田では202人の行方不明者がいます。自分が捜索活動をしていた2013年の時点では216人だった。7年間で14人しか見付かっていない。1年で数名見付かるかどうかというレベルです。

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地元のとある団体がずっと続けてきた行方不明者の捜索活動は徐々にその規模を縮小していき、遂に昨年その活動を終えました。終わってしまったことは残念ですが、8年にも渡って捜索活動を続けてくれたことに心からの敬意を表したい。ずっと捜索活動をする人達がいたということ自体、大切な人の帰宅をずっと待ち続けている人達にとってどれほどの希望だったことか。希望があるのとないのでは、人の生き方は大きく変わってくるはずです。

土に埋もれた人の骨は小さくなります。色もくすんでおり、普通の人では木片との区別がつかない。ましてや9年も経過した現時点においては部位によっては小さくなりすぎてもう骨としては残っていないと思います。だから仮に土の中に遺骨があったとしても、それを骨だと判断すること自体が極めて難しい。

でも行方不明者数が減らない一番の理由はそこではありません。行方不明者の多くは海に流されている。陸地はもう散々探した。でも海の中までは捜索できない。

だから今の時点で行方不明者の遺骨が出てくるというのはもはや奇跡以外の何物でもありません。

昨年の秋に宮城県の海域で漁師さんの網に骨が入ったそうです。津波に流されて行方不明になっていた20代の女性の遺骨でした。
そのご両親は震災以降ずっと娘さんを探していました。当時、その姿がニュースで流れていたのを覚えています。気持ちは痛いほど伝わってきましたが、おそらく発見することは出来ないだろうと自分は思いました。実際に行方不明者の捜索をしていた経験があるからこそそう思えたのです。だから、昨年秋に遺骨が見つかり両親の元に戻ったというニュースを知ったときは驚きとともに、これこそ本当の奇跡だと思い涙が出ました。

大切の人の帰りを待ち続けている人は、当然のことながら行方不明者数の人数を上回ります。今でも大勢いる。その人達が苦しいのは、行方不明者が生きて帰ってこないからではなく、何も見付からないことが苦しいのです。どこに眠っているのかわからないから供養のしようがない。お墓に入れることも出来ないし、話しかけることも出来ない。もし遺骨の一部でも見付かってくれれば、その人達はそうした苦しみからは解放される。

遺留品でもいい、何もないより遥かにいい。ピースメーカーだけが見付かったケースがあったそうですが、それでも遺族の方は大変喜んだそうです。それとて充分心の拠り所となったのです。

東北の太平洋沿岸部に行くと、震災で身内を亡くしたという人はごく普通にいます。一見、街中が復興して人々が賑わいを見せていたとしてもその点は関東以西の人間と決定的に違う。被災地外の人は、その点は心得ておいた方が良いです。
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2019-03-11 [東日本大震災]

1年のうちで1番色々な事を考える日は、多分今日です。

自分は被災者でない、他県の者です。何度ボランティアで現地に足を運んでいたからといって、余所者であることに変わりはない。壮絶な経験をしたわけではないし、この世のものとは思えぬような悲惨な光景を目にしたわけでもないし、大切な人を亡くしたわけでもない。住居や財産を失い生活に困窮しているわけでもない。
だから余所者は決定的に違うのです。どれだけ被災者の事を思い、その側に立とうとしても。そこはしっかりと自覚していなくてはいけない。

被災地の人もまた一様ではない。
辛い経験をして未だに苦しみや悲しみから抜け出せない人もいれば、今ではほぼ通常通りの生活に戻り、被災者扱いされることを嫌う人もいる。震災を風化させたくないと願う人もいれば、思い出したくない、触れて欲しくないという人もいる。

そうした面において、ここ数年で現地の人と接する難しさを感じる機会が何度かあった。以前からの知り合いであれば別にいいのですが。

けれども東北の人達は基本的に人柄が穏やかで優しい。他県の人が足を運べばもてなそうとしてくれる。例えそれが自分たちに余裕のない時であっても、です。

どれだけ現地に寄り添っても、被災地の人にしかわかり得ない想いがある。分かり合える者同士だけで思いを共有する時間もまた必要だと思う。

3月11日、そしてお盆。余所者である自分はあえて距離を置き、遠方から黙祷を捧ぐ。
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心は今も東北に。 [東日本大震災]

東日本大震災から7年目となる3月11日は日曜日でした。
関東では天候も穏やかな行楽日和。でも今日は外出はしない。最初からそう決めていた。東北に思いを寄せて黙祷を捧げました。

震災から年月が経ち、被災地とそうでない場所での温度差が大きくなっていることを痛感せざるを得ません。元々は自分も東北地方には縁も所縁もない人間です。災害ボランティアとして現地に足を運んでいなければ、自分だって今頃は何も気にせず遊びに行っていたのかもしれない。

でも自分は知っている。3月11日、そしてお盆の時期には被災地の人達は海に向かって手を合わせる。毎年東北に足を運んでいた結果、今では東北に大勢の知り合いが出来ました。その人達も今日という日は例外なく祈りを捧げているはずです。
ならば自分も同じでいようと思います。自分は他県の人間ですし被災者でもない。けれども、心だけはいつも東北に寄り添っていたい。

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自分が陸前高田で行方不明者の捜索に加わっていたのが2013年。その時には市内の行方不明者数は216名だった。そして現在では203人。5年で13人が見つかったことになります。

よく見付かったものだと思う。2013年の時点でさえ、既に遺骨はかなり小さく、見た目はほとんど小枝の破片のようなものでした。写真を見せてもらいましたが、自分には見分けられないと思った。表面の質感で疑わしいものを見分け、DNA鑑定でようやく人骨だと断定できる。そんなレベルです。自分が参加した捜索では、土を掘り返すだけではなく掘り返した土をふるいにかけていました。そうしないと見落としてしまうほど小さいものだからです。

震災から7年が経過した今、既に遺骨はかなり風化していて見分けが付かないだろうと思います。何より行方不明者の多くは海まで流されてしまったと思われ、果たして陸上の捜索範囲内に遺骨が埋まっているのかどうかさえもわからない。何も埋まっていないところをひたすら掘り返しているという可能性もゼロじゃない。今では自分もすっかりモチベーションを失ってしまった。

月命日に行われる県警での一斉捜査においても、陸前高田では2012年の一斉捜査で行方不明者の遺骨が発見された以降は手掛かりは発見されていない。それくらい、行方不明者を探すという事は難しい現状にあります。

それでもなお、今でも定期的に行方不明者の捜索を続けている団体がある。この先、行方不明者の遺骨や遺留品が出てくるのかどうかはわからない。出て来ないかもしれない。けれどもこうした捜索活動を続けている人達がいることで、望みを絶たれずに済んでいる遺族の方がいることも確かです。それだけでも本当に凄い事だと思うし、その活動に対して尊敬の念を抱かずにはいられない。

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昨年は雑誌の取材で陸前高田を訪問することが出来、その帰り道に慰霊塔で手を合わせてくることが出来ました。この慰霊塔では過去に何度も手を合わせているのだけれども、今年もまた手を合わせに行こうと思っています。自分は陸前高田で何の役にも立つことが出来ずにいるので、申し訳ないという気持ちで手を合わせて来ます。
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2017.8.釜石~陸前高田 [東日本大震災]

今回はロックフィッシュの雑誌取材で岩手県まで出向いてきました。

取材は強力な助っ人の皆さんのサポートにより無事に終了。タイムリミットが迫っており延期も難しく、どうしようかと頭を抱えていました。自分1人で進めていたら失敗した可能性も充分あったと思います。それが無事に終わって今はホッとしています。サポートして下さった方々には、ただただ感謝の言葉しかありません。

実際に釣りをしたのは陸前高田でしたが、宿泊施設が少ないので釜石に泊まっていました。震災以降、岩手県内をあちこち周りましたが釜石は初でした。で、どうしても立ち寄りたかったのが釜石のとある病院。

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釜石在住のKさんはスミスのトラウトテスターでした。しかし、津波で自宅が被害に遭い仮設住宅への入居を余儀なくされた。そしてKさんは病院で事務関係の仕事をしています。震災後は大勢の被災者が殺到したはずです。そうしたこともあってKさんは肉体的にも精神的にもかなり弱ってしまった。自分としても、きっと大変なのに違いないと思い、少し連絡を入れるのを自粛していました。しかしKさんとはその後音信不通になってしまい、自分としてもずっと気になっていたのです。

今回、別の用件だったとはいえ釜石を訪れることが出来ましたので、Kさんがお勤めの病院を訪ねてみました。音信不通になっていたくらいですからアポイントも取れていません。まだこの病院に居るのか?居たとしても会えるのか?はわかりませんでしたが・・・
しかし、お仕事中ではありましたが無事にKさんにも会え、近況を伺うことも出来ました。元気そうな姿を見れて安心もした。

そして、何となく予想はしていたのですがKさんは釣りを止めていました。Kさん以外のテスターでももう一人、ロックフィッシュのテスターだった人が海釣りを止めてしまった。関東以西の人にはなかなか想像が出来ないかもしれませんが、津波の被害を目の当たりにして海や水に対してのトラウマを持っている人が東北沿岸部には普通にいます。仮設住宅を周った際にも、海にはもう行けないと言っていた住人の方も複数居ました。そんな人に対して、海に行きましょうとか、釣りをしましょうとは、自分は言えない。

Kさんに対しては「もしまた釣りを再開したら連絡を下さい」と伝えましたが、この先にKさんが釣りを再開することはないと思う。

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取材を無事に終えた帰り道、陸前高田の道の駅に立ち寄りました。自分が古川沼での行方不明者の捜索に加わっていたのはもう4年前のこと。この街はその頃からほとんど何も変わっていない。他の地域と比べて復興の度合いが桁違いに遅いと思う。

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陸前高田では今でも203人もの人が行方不明のままです。慰霊塔に手を合わせてから帰宅の途につきました。

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祈りの日 [東日本大震災]

会社員にとっては待ちに待った貴重な休日。なので今日も釣りに・・・と言いたいところですが、さすがに今日ばかりは釣りには行きませんでした。今日は3月11日、とてもそんな気分にはなれない日です。

震災以降、毎年岩手県に足を運んでいます。街の復興再建が進んでいくのをこの目で見てきた。

かつて自分がボランティアで訪問した仮設住宅は今年に入って取り壊しされ、今はもうない。その一方で、復興公営住宅の建設が完了した市もある。でも、もう今さら入居する人なんて少ないですよ、という声もある。
街の復興が進む一方で、建設関係の人達が居なくなってしまうと逆に街が廃れてしまうのではないかと心配している人もいます。確かに、宿泊施設は予約を抑えるのに苦労をするほど埋まっていますがその多くは建設関係の人達です。

ニュースでは上辺の綺麗ごとしか報道されません。自分で行き、見て、聞いて、初めてわかる現実があります。

別段、自分に何かが出来るわけでもないのですが、今年も例年通り5月後半に岩手に出向く予定です。
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