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区切りの年 [東日本大震災]

2016年。震災から5年が経ち、このタイミングで震災以降続けてきた復興支援活動に一区切りをつけました。

これまで仮設住宅への訪問、復興支援イベントのお手伝い、泥出し、各種の寄付、行方不明者の捜索など行ってきましたが、果たしてそれらによって現地の人達をどの程度助けることが出来たのか?結果を出すことが出来たのか?というとそれは本当に微々たるものでしかないと言わざるを得ませんでした。いかに自分が無力であるかを痛感したのと同時に、どうすれば被災地の力になることが出来るのか、日々悩み続けました。

そんな折、北浦の貸しボート屋さんが廃業されるということでFRPボートを安価で売りに出しているのを知りました。一方、岩手には津波によって多くのボートを流失してしまった観光業者さんがいた。それならば北浦のボート屋さんからボートを20艇ほど買い上げてそれを提供すればいいんじゃないか。観光業や釣り客が復活すれば地域経済もきっと活性化する。そのプランを岩手の観光業者さんに提案したところ、是非お願いしたいとの回答を得ました。自分がやるべきことは、これだと思った。

ところがそんな状況に待ったが掛かることになります。釣り客が戻って来る気配がないと。だから、今ボートを提供されても活用できないと。確かに、自分自身が現地の視察に出向いた際にも、釣り客の姿は皆無で寂しい光景でした。この地がボート釣りで賑わう日はもう戻って来ないのか?

少なくともボートを提供するという当初の支援プランは頓挫することとなりました。ここでまた悩むことになった。

焦ったところで仕方がないと考え、まずは釣り人に戻って来てもらうことを目的とした支援策を模索していくことにしました。そして自分が最終的に出した結論というのが「浄土ヶ浜マリンハウス大物ダービー」の開催でした。スタートは2013年です。

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とにかく、やるからには絶対に成功させるという意気込みで開催しました。だから「無理せずやれる範囲で」ではなく「無理をしてでも徹底的に」。開催は雑誌でも告知。賞品もフィッシュグリップやリールなどイベントとして恥ずかしくないレベルのものを揃えた。手間もお金も時間も惜しむことなくガッツリ注ぎ込んだ。
なお、当初自分が想定していた「成功」というのは数年をかけて釣り人が戻って来ることを目論んでいました。それくらい、ロングスパンでの取り組みを想定していたのです。

ところが結果は嬉しい誤算となりました。大物ダービーは初年度から予想以上の盛り上がりを見せ、2年目には延べ参加人数が455人、3年目には659人と想像を遥かに超える人達が浄土ヶ浜に足を運び、ボート釣りを楽しんでもらえるようになった。もちろん全員貸しボートの利用客でもあるので、現地における大きな経済効果も生み出すことが出来た。

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浄土ヶ浜の海で多数のアングラーがボート釣りを楽しむ光景。2011年、2012年に現地訪問した際には、そんな光景はもう戻って来ないかもしれないとさえ思えました。せめて自分が生きているうちにそんな光景を目にすることが出来たなら嬉しい。本気でそう思っていた夢の光景が、今はもう現実のものとなっている。予想以上に早く、当初の目的は達成することが出来た。

そして659人という参加者があった2015年に決めました。もう自分は必要ない。自分は2016年で手を引く。現地の人達にもそう伝えていました。大物ダービーは既に復興支援策からは完全に脱却して、現地での純粋な釣りイベントに成長しました。知名度もアップした。あとは現地の人達がやりたいように育てていってくれればいい。

2016年。台風10号の襲来により岩手県宮古市も大きな被害を受けました。宿泊施設は冠水し幹線道路が寸断され、観光業が大きな打撃を被った。しかし、釣り客はすぐに戻って来てくれた。さすがに今年はダービー参加者の人数は前年に及ばないだろうと予想していましたが、結果的に2016年のダービー参加人数は2015年をさらに凌ぐものでした。年々、釣り客が増加の一途を辿るようになった。観光客と違い釣り客は一度来た人が2度3度と来てくれる。

これではっきりとわかりました。浄土ヶ浜の釣りは、もう簡単に廃れてしまうようなことはない。大丈夫だ。自分も安心して手を引くことが出来る。

来年から、大物ダービーは新しいスタイルに生まれ変わって開催される予定になっています。

この5年、当初は空回りしたり悩んだりしながらの復興支援活動でしたが、今は自信を持って結果を残せたと言える。だからここで一旦終わりにします。

では、来年からはどうするのかって?これまで同様、年に一度は宮古市の街並みを見に行く。今や復興という次元を通り越して発展し続けている宮古を見ると何だかとても嬉しくなれるから。そして浄土ヶ浜のロックフィッシュにもチャレンジして、あわよくば大物ダービーへの上位入賞を密かに狙っていく。これからは参加者として楽しませてもらうつもりでいます。

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【再掲】釣り場で地震に遭ったら? [東日本大震災]

熊本地震の被害状況には心が痛むばかりです。そして規模の大きい余震が続いていることにも大きな不安を覚えます。一刻も早く終息に向かってほしいと願うばかりです。

東北もそうでしたが、九州は巨大地震に関してはあまりマークされていない地域だったと思います。日本という国自体が地震大国であり、そればかりはどうしようもない。いつどこで地震が起きてももはや何の不思議もありません。

地震が発生した際、地盤が弱く傾斜があったりする水辺というのは危険です。とはいえ釣り人たるもの、もしかしたら水辺で地震に遭遇することがあるかもしれません。

自分は東日本大震災後、水辺に近付く釣り人が危険な目に遭わないようにと「水郷危険箇所マップ」というものを作成しました。その作成にあたり、数多くの危険現場に出向いてきた経験から、おおよそこんな場所が危ないということを知っています。

本日掲載する内容は、数年前にも一度同じ内容を掲載したものです。今一度ご確認いただき、頭の片隅にでも入れておいていただければと思います。

【垂直な地形の場所は危ない】
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(2011年5月 野田奈川)
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(2011年5月 北野田奈川)
勾配が垂直もしくはそれに近い場所というのは崩れやすい。釣り場の護岸や土手においても然りです。こうした場所にいる時に揺れを感じたら即座にその場を離れて下さい。
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(2011年5月 新利根川)
表面が護岸されているからといっても危険であることに変わりはありません。東日本大震災の時はコンクリート護岸ごと崩れた場所も多いです。瓦礫に巻き込まれることを考えるとむしろ危険と言えるかもしれません。

【橋は危ない】
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(2011年5月 野田奈川)
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(2011年5月 新利根川)
橋はその構造上揺れが大きくなるのと、たもとに段差が発生しやすい。古い橋や簡素な橋は崩壊の恐れもあります。北浦の鹿行大橋の崩落には誰もがショックを受けたことでしょう。地震が起きた際には絶対に橋の上に居てはいけません。

【水門周辺は危ない】
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(2011年4月 北利根川)
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(2011年4月 前川)
水門はそれに通じる管などが埋設されている関係上、揺れるとその周囲の地形が大きく変形しやすく、陥没や段差などが生じます。同様に、砂利道にあるマンホールはキノコのように大きく飛び出る危険性があります。いずれも通り慣れた道だからと言って車を飛ばして走らない事です。

【堤防状の土手の上は危ない】
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(2011年4月 常陸利根川)
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(2011年4月 常陸利根川)
揺れの方向にもよるのでしょうが、震災では利根川や常陸利根川の土手上で大きな地割れや崩落などが発生しました。堤防状の地形ゆえ揺れを抑えるものがなく、南北方向に大きく揺れたためと思われます。

【継ぎ目は危ない】
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(2011年4月 黒部川)
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(2011年4月 前川)
護岸の継ぎ目、路面の継ぎ目などは大きな地震が来るとその部分に亀裂が走ったり割れたりします。斜め護岸と平護岸の継ぎ目にも注意。

【境目は危ない】
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(2011年4月 常陸利根川)
道路と建物、道路と土手、或いはコンクリートと土、コンクリートと砂利など、異なる構造物間、異なる素材間はそれぞれの揺れの周期が異なるため、亀裂が入ったり割れてしまったり段差が出来たりします。写真は常陸利根川ですが同様の事例は霞ヶ浦や北浦の湖周道路でも多発しました。車の運転では脱輪に要注意です。

【隅は危ない】
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(2011年4月 横利根川)
護岸の末端など、揺れの力がその場に集中するため損傷を起こしやすい箇所です。

非常時に100%安全な場所というのはないと思いますが、比較的安全性の高い場所に避難することが大事なのは言うまでもありません。もし釣り場周辺にいた際に大きな揺れを感じたら、まずは急いで水辺から離れて下さい。護岸や土手が崩落するかもしれません。そして上記に挙げたような危険箇所に留まることは避けて下さい。なるべく広くて平坦な場所に避難するのがベターです。

また上記は水郷エリアの例を挙げましたが、例えばリザーバーでボート釣りなどをしている場合に地震を感じたら、全力で岸際から離れて沖に逃げて下さい。急斜面で囲まれたリザーバーの場合はどこで岸際が崩落してもおかしくありません。崖下などは落石要注意と言えるでしょう。

釣りは楽しい遊びですが危険と隣り合わせということも忘れてはなりません。自分の身は自分で守れるよう、装備や心構えを怠らない事も大事な事です。

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あれから5年。 [東日本大震災]

本日、午後2時46分から1分間の黙祷を捧げました。

あれからもう5年が経つのかと思うと感慨深いものがあります。震災以降、自分は毎年岩手県の沿岸部に足を運んでいます。震災直後の様子は本当に酷かった。復興するにはどれくらいの年数が掛かるんだろうかと気が遠くなった。

もちろん今でもまだ復興には程遠いという場所も多い。けれども、私が足を運んでいる宮古市中心部など、震災直後の面影というのがあまり感じられないまでに復興してきている地域もある。

あまりにも甚大な被害を目の当たりにし、当初自分は一体何をしたら良いのかわからなかった。ただ気持ちばかりが先走り、空回りをしては自分の無力さに泣けてきた。何も出来ない自分が本当に辛く、深く思い悩んだ時期があった。そんな中でも、現地の人達と交流を続けていく中で手応えのある支援活動を見出すことが出来、周囲の協力のおかげもあって想像以上の成功へと繋げることが出来た。

この3年程で、道筋は示すことが出来た。これからは現地の人達が自力で、私達が作り上げたものを継続し大事に育て上げていって欲しい。浄土ヶ浜は、もう自分が居なくても大丈夫だと思う。

ひとまず、自分の役割は終えたと思っています。震災から5年。これを1つの区切りと捉え、本年を最後に自身の復興支援活動にピリオドを打ちます。

それでも、これからもずっと東北の事を見守りながら生きていく。元々、自分には何の縁や所縁もなかった東北地方。けれども今では、岩手にも宮城にもかけがいのない仲間がいる。世話になった人達がいる。それはまさしく自分にとって宝であり、それをこの先もずっと守っていく気持ちに変わりはない。

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水郷エリア 義援金のいま [東日本大震災]

東日本大震災の発生後、元々地盤の緩かった水郷エリアは見るも無残な状況となってしまいました。

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地割れ、陥没、液状化、護岸の崩落、等々。道路は波打ち、電柱は大きく傾いた。家屋が傾いてしまったところもありました。水道が止まり、住民が避難所に身を寄せた地域もありました。

それでも津波によって多くの人命が奪われた東北地方に比べれば、ということで報道などもほとんどされませんでした。でもそれは致し方のないことです。

しかし、日頃から慣れ親しんだ地域の惨状を目の当たりにして何もしないでいるというのは、自分には考えられませんでした。そんな折、水郷エリアの行政機関がそれぞれ義援金を募っているのを知りました。賛同してくれる人がいてくれたらと願い、バスアングラーに向けて水郷エリアの行政に向けての義援金協力の呼びかけをスタートさせることにしたのです。震災が発生してから半月ほど経過した時点の事でした。

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結果、何名かの有志がこれに賛同して下さったのを知っています。そして水郷エリアで開催される多くのトーナメントやイベントもこれに追随して義援金を集めて提出してくれた。とても嬉しく思いました。

現在では一部を除き、水郷エリアのほとんどの場所において安全に釣りが楽しめるまでに復旧しました。一時期は多数の工事車両が行き来する状況でしたが、今となってはそれもすっかり落ち着きました。

足場の良いフィールドで安全に釣りが楽しめるということは当たり前の事ではない。道路も湖岸もちゃんと管理をしてくれているところがある。危険な箇所があったら修繕してくれる。その為の費用も発生している。

水郷エリアの復旧には、全体からすれば僅かな割合に過ぎないのかもしれないけれど、水郷エリアを愛するバスアングラーの善意が確実に含まれています。義援金協力をしてくれた人は誇りに思っていいと思う。

で、今回このような記事を記したのは、現在の行政機関の義援金の受付状況をお知らせする為です。

今年の3月末日で義援金の募集を完了したところもありましたので、現時点において義援金の受付を行っているのは茨城県稲敷市のみとなりました。潮来市、鹿嶋市、神栖市、香取市、土浦市は完了となりました。

賛同・ご協力を下さった多くのバスアングラーの善意に深く感謝します。

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あれから4年。 [東日本大震災]

考えること、書きたいことが山ほどあります。実は途中まで書いていたのですが、文章量だけ膨大になってとりとめのつかない文章になってしまったので消去しました。

震災から4年が経った今でも、復興まではまだまだ遠いと思える場所は少なくない。生活面、精神面で苦しんでいる人達は大勢いる。自分の目で見てきたのだからそう言える。

被災地に対する世間の関心はだいぶ薄れたと思う。それをとやかく言っても仕方がない。自分は自分の信じる事をやり抜くのみ。

辛い生活をしている人達が、少しでも早く幸せな生活に戻って欲しい。そう願って止みません。

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216を減らす事の難しさ [東日本大震災]

昨年の9月、陸前高田市・古川沼での行方不明者捜索に加わりました。この捜索は8月に開始され、大勢のボランティアが捜索に加わった。

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自分は被災地の仮設住宅で、家族を失い一人で暮らしている人も見てきました。未だに家族の行方が分からず塞ぎ込んでいる人もいる。何とかしたいと思ったけれど、行方不明になっている家族を遺族の手に戻すこと以外に自分には考えられなかった。だから自分自身も行方不明者の捜索に加わりましたが、結果を出すことは出来ませんでした。

とにかく悔しいの一言。行方不明者を発見することの難しさは自分の想像を遥かに超えるものでしたが、このままで終わりたくないという気持ちが強く、また機会があれば捜索活動に加わるつもりでいました。

あれからもうすぐ1年が経つ。現地の状況は大きく変わった。

残念ながら、現在ではもう捜索活動はほとんど行われていません。捜索活動を行っていた2つの有志団体のうちの1つは今年の5月でその捜索活動を終了しました。そしてもう1つの団体は、他のボランティア活動を中心に活動をされており、捜索活動は極めて限定的なものとなっているようです。

捜索活動によって、多くの手掛かりや遺骨の一部のようなものが日々発見されていたのは確かです。私が参加した日だって、他の人がそれらしきものを発見していた。自分自身が力になれなかったのは残念でしたが、それでもこの捜索活動によって行方不明者が発見され、それによって多くの遺族の人達もまた救われているはずだと思っていました。でも現実はそんなに甘いものではなかったようです。

私が捜索に加わった2013年9月の時点で、陸前高田市の行方不明者は216名。そして2014年2月28日の時点における陸前高田市の行方不明者数は、県の発表で215名だった。この結果は正直ショックでした。新規に発見された行方不明者はたったの1人だった。古川沼の捜索活動で発見された人かどうかもわからない。

捜索活動で発見された遺骨の一部と思わしきものは一体何だったのか。行方不明者の遺骨ではなかったのか?或いは既に身元が判明している人の遺骨の一部だったのか。でも、それを知る術はありません。

この結果を知るにあたり、捜索活動のトーンダウンも止む無しと思えるようになりました。そして、自分自身の捜索活動への思いもトーンダウンしてしまったというのが正直なところです。

岩手県にはまだ1132人もの行方不明者がいます。物凄い人数です。そしてその行方不明者の人数以上に悲しんでいる遺族がいる。でもその中の僅か1人を助けることすらとても、とても、とても難しい事なのです。自分はこの先何をしたらいいんだろう。

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あれから3年。 [東日本大震災]

今日はテレビ番組でも被災地の映像が多く流れました。当時の事を思い出したり、被災地に思いを寄せる人も多かったと思います。

亡くなった方への鎮魂の祈り、そして復興への願い。それが年に一度の一時的なものであってはいけない。けれども明日以降は、また多くの人の脳裏から被災地の事は忘れられていく。

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実際に自分の目で被災地の現状を目の当たりにして初めて事の重大さに気が付く。被災者と直接話をすることで、初めて本当の傷の深さを知る。それらはテレビの画面から得られるものとはまるで感覚が違う。

自分には未だに被災地に対する罪悪感がある。今でも被災地で多くの人が大変な生活をしているのを自分は知っている。一方の自分は、決して裕福ではないにせよ、特に不自由する生活は送っていないし、悲しみに暮れるようなこともない。釣りという楽しみも持っている。同じ国で生活していながら、あまりにもその差が大き過ぎる。それは自分だけでなく、被災地以外で生活する人のほぼ全てに当てはまることだと思う。

もしもそんな国民の多くが、その落差を少しでも埋めようと行動してくれたら、心の傷はともかく、被災者の多くはもっと豊かな生活を取り戻せる。でも3年経った今でもそれが実現出来てはいない。それが現在のこの国の現実。

自分は今年も何度か被災地に足を運ぶつもりでいる。復興は願いや祈りだけでは進まない。いくら口先で綺麗事を並べたところで何も始まらない。どうしたら良いのか、自分に何が出来るのか。それを本気で考え、実践することに尽きると自分は考えているのです。

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次の一歩へ・10 [東日本大震災]

このブログを読み続けてくれている方ならばご存知かと思いますが、私は東日本大震災の被災地支援の一環として、岩手県宮古市の観光業者さんに支援を行っています。これは別に特定の業者に寄付などをしているということではなく、観光客や釣り客の増加があれば、ひいては必ず地域全体の復興に繋がっていくと考えるからです。

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ここには穏やかで美しい海がある。何の気兼ねもなく釣りが楽しめる環境が揃っている。被災地に行ったことのない人にはこれがどれほど貴重なことか理解できないかもしれない。被災地には未だ、釣りが出来るような雰囲気でない場所も多いのです。

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この写真は陸前高田の海です。本来一般の人は海岸線に立ち入ることも出来ない。特別に立入・撮影の許可を得て撮影した写真です。この光景を目の当たりにし、あまりの空気の重さに胸が締め付けられる思いがした。釣り?この光景を前に、そんな言葉すら出てこない。

私が企画した当初の支援策は、津波によって失われたFRPボートを提供するというものでした。釣り人を宮古の海に呼び戻したい、そのためにはまず受け皿となるボートを元に戻すことが先決だと考えたのです。時を同じくして、水郷エリアでFRPボートが格安で売りに出されているのを自分は知っていました。震災を期に、貸しボート業を廃業されたボート屋さんがあったのです。現地に出向き、全部で25艇のボートが売りに出ているのを確認してきました。さすがに25艇全てというわけにはいかないまでも、これらを買い取り、被災地に送るつもりでいました。配送の見積もりも進めていた。

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私の提案には観光業者さんも喜んでくれ、ボートを提供するというプランは実行に移せると信じて疑わなかった。でも、出来なかった。想像以上に釣り人の足が遠のいていたのです。回復の兆しがない。私が現地に視察に出向いた際にも、数艇あるFRPボートは使われることなく陸揚げされていた。こんな状況で船だけ増えてもしょうがない。厳しい現実がそこにはあった。

落胆しましたが、まずは目の前の問題を1つずつ解決していくことにしました。とりあえずは地道に、少しずつでも釣り人が戻ってくるような施策を進めていくことにしたのです。その施策の柱とも言えるものが、ロックフィッシュの大物ダービーでした。

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これは私が発案したものではなく、元々現地で毎年開催されていたもの。ところが釣り客が激減したため、2012年は実施が見送られてしまっていました。今年は私がスポンサーを名乗り出、復活させました。釣り客が来なくなったからダービーを止めるのではなく、私はダービーを盛り上げることで釣り客を呼び戻そうと考えたのです。

成功するという確信があったわけでもなく、ひとまずは私だけで協賛品を準備するつもりでいたのですが有志の方々が協賛をして下さることになり、結果として参加賞まで出せるようになった。釣り上げた獲物が大物でなかったとしても、とりあえず魚を検量すればルアーやフロロカーボンラインなどがもらえる。これは本当に大きかった。

12月より、現地は冬季休業期間に入ります。よって、間もなく2013年度の大物ダービーは終了します。近く、結果を発表することも出来るでしょう。では、大物ダービーを実施したことで、果たして現地に釣り人を呼び戻すことは出来たのか?本日、マリンハウスの早野さんに尋ねた。

「釣りっ子(釣り人)さ、多く来てくれるようになったど!」

そして、まだ確定ではないけれども、来シーズンにはボートを増やすことも検討しているのだそう(その話を聞き、すぐにFRPボートが売れ残っていないか確認したが・・・)。

現地に釣り人が戻ってきた!それが果たして大物ダービーのおかげなのか単に震災のホトボリが冷めてきたからなのかは定かではないけれど、自分が望む結果となりつつあるのは間違いない。何はともあれ、これでようやく一歩前進できた気がする。小さな一歩かもしれないけれど、前に進めたことがとにかく嬉しい。

マリンハウス大物ダービーに協賛して下さった 株式会社ギル様、センドウタカシ様、株式会社スミス様。告知に協力下さった釣り東北様、釣研様、ラストリゾート様、佐々木釣具店様、小島博人様、中嶋康文様。皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

もちろん、一歩の前進で満足しているわけじゃない。目指すゴールはまだ先にある。さぁ、次の一歩はどう進もうか。

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いざ、陸前高田へ。3 [東日本大震災]

ご注意:以下の内容には遺体、遺骨という言葉が多数出てきます。気分を悪くされる方はこの先を読まないようにして下さい。

2日目、9月22日(日)。可能であれば3連休をフルに活用して捜索活動に充てたかったのですが、復興サポートステーションが月・火休みなのでその間は捜索活動自体が行われず、月曜日の活動を断念。だから自分としてはこの日のうちに何とか結果を出したいところでした。

この日もバスでやってくる団体のボランティアが多く訪れ、154名ものボランティアが集まりました。さらにこの日は古川沼の捜索班が大幅に増員されました。これだけいれば今日は何か出てくるかもしれない、そう思いました。

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(特定非営利活動法人P@CT様のHPより)
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(特定非営利活動法人P@CT様のHPより)

結果、この日も自分自身で遺骨を発見することは出来ませんでした。しかしこの日、他の方の手により骨らしきもの1つと歯のようなもの1つ、持ち主が特定できる可能性がある品などが見付かりました。

これらは警察に持ち込まれ、DNA鑑定を経て遺体の一部であるのかどうかが判別される。しかしその結果は、その発見者にも、捜索活動を主宰する団体宛にも一切知らされることはありません。警察に問い合わせても教えてはもらえない。遺骨も人権を尊重して扱われるため、個人情報の漏洩に当たらぬ措置が取られるためです。9月23日現在、公表されている岩手県内の行方不明者数の216という数字がもし215に減ることがあったなら、おそらくはどこかで遺体の一部が発見され、それが遺族のもとに戻ったと言える。それだけが唯一の確認方法です。それよりも確実な確認方法はありません。

この日発見された「骨のようなもの」「歯のようなもの」が遺骨として遺族の元に帰ってくれることを願うばかりです。変わり果てた家族の姿を見てショックを受けることと思うのですが、それでも気持ちに区切りが付けられる遺族の方もきっといると思う。そうなることを願い、震災から2年半以上が経過した現在でも、日々黙々と行方不明者の捜索を続けている人達がいるのです。

しかし現在のペースではとても古川沼の湖底泥を調べ尽くすことは不可能です。数年以上が掛かることになるけれども、そこまで活動が継続できるかどうかもわからない。
今回、捜索活動に関係する現場の写真を何点か掲載しましたが、これは活動の主宰団体であるP@CT様からの撮影及びウェブ上での掲載許可をいただいているものです。但しその公開に際しては条件が付いていました。捜索活動するにあたって全然人手が足りない、この窮状を広めて欲しい、との事でした。


最後に、私が現地で撮影してきた陸前高田市内の写真を掲載します。被災地の写真を撮影、公開することには賛否両論があると思います。ですがメディアではすっかり現地の様子が報じられなくなった今、もう復興しているんだろうと思い込んでいる人も多いことと思います。現実はそうではありません。この街の海沿いは依然としてこのような状態です。まるで戦地のようだと感じました。復興という言葉にはまだまだ程遠い、この現実を多くの人に知って欲しい。

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(5階建の建物ですが、上階まで津波を受け外壁しか残っていません)

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(古川沼から望む陸前高田スタジアム。照明塔だけが残った)

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(古川沼の内陸側。かつて街があった場所も、今は何も無い)

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(奇跡の一本松からほど近い道の駅。建物の中は瓦礫が手付かず状態のまま)

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(名勝高田松原の面影はもうどこにもない)

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(道の駅の側に作られた追悼施設。鎮魂の祈り、そして遺体を見つけ出したいという思いを)

自身のお金、労力、時間を費やして、それで必ずしも結果が得られるわけではない。もし仮に結果が得られたとしても、何か見返りがあるわけでもない。被災者の方から直接感謝されるわけでもない。そんなこと、普通はやらないかもしれない。馬鹿げていると考える人がいるかもしれない。

だから、陸前高田へ行方不明者捜索をするために集まってきていた人達はある意味馬鹿です。自身が得をすることは決してない。むしろ必ず損をしている。ただひたすらに、見ず知らずのどこかの誰かが苦痛から開放されることだけを願ってわざわざ損をしに来ている。

全く以って普通じゃない。休みの日は遊びに行けば楽しい思いが出来るし、自分のお金は自分が欲しい物を買う方がいいに決まっている。

それでも自分は、そんな普通じゃない馬鹿な人達の事が大好きで、自分自身もそんな大馬鹿者の一人であることをちょっとだけ誇りに思っていたりするのです。

協力:特定非営利活動法人P@CT(パクト)

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いざ、陸前高田へ。2 [東日本大震災]

ご注意:以下の内容には遺体、遺骨という言葉が多数出てきます。気分を悪くされる方はこの先を読まないようにして下さい。

震災以降、これまで何箇所かの被災地を見てきました。被災者の方とも多く接してきた。そうした中で自分が感じてきたものの1つとして、やっぱり家族を失った人が最も辛い思いをしているのではないかということ、特に未だに家族が行方不明のままでいる遺族の人が震災以降に気持ちの切り替えが出来ず塞ぎ込んでしまっているケースが多いということでした。

何とかしてあげたいと誰もが思う。でも、寄付や同情で何とかなるようなものでもない。考えるまでもなく答えは1つしかないはずです。行方不明になったままの家族を見つけ出して、遺族の元に返すこと。

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今回、僅かな可能性に賭けて陸前高田市の古川沼で行われている行方不明者捜索に加わってきました。2日間、土砂の中をひたすら掘り返し、瓦礫を拾い集めその中に何か手掛かりがないかを探し続けた。結果、自分は行方不明者を見つけ出すことは出来ませんでした。

とにかく、悔しいの一言に尽きる。けれども、何もしないでいるよりは良かったと思っています。後悔の気持ちはない。

9/20(金)、仕事を終えて帰宅。食事と入浴を済ませて現地に向かいました。夜通しのロングドライブとなるので目が冴えているうちになるべく走り、眠くなったら適時休憩を挟みながら現地に向かうようにしました。

陸前高田には8時頃到着しましたが、その風景に唖然としました。こんなことを書いたら地元の方に怒られそうですが、海沿いの街は壊滅したままの状態としか思えませんでした。だだっ広い新地と化した場所が広がり、津波により破壊された建造物はそのまま残っていました。海沿いはことごとく復旧工事中で多数のダンプカーや重機が行き来していました。他の地域と比べても突出して復興が遅れていると思いました。

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復興サポートセンターでの受付まではまだ時間があったので奇跡の1本松に立ち寄りました。元々は高田松原という70000本もの防潮林が広がっていたこの地域も現在は周囲は何も無い新地、あるのは津波に破壊された建物の残骸のみ。この周辺は基本的には復旧工事により立入禁止区域なのですが、奇跡の1本松に向かう通路のみ一般の人でも通れるようになっていました。ただ、それ以外は本当に何も無い。

復興サポートステーションには多数のボランティアが続々と集まってきました。その数おおよそ150名。その多くは大型バスでやってくる団体ボランティアで、神奈川からやってきている団体もありました。少林寺拳法の団体や、学生の団体もいました。私のように個人で来ている人は数えるほどしかいませんでしたが、同じ埼玉県から来ている人達がいたのは嬉しかったです。

全てのボランティアが古川沼での遺体捜索にあたるわけではなく、漁業支援や施設、イベントの支援などに回るグループもあります。それらは事前の申し込み時に希望を伝えておくのですが、人数調整の関係で必ずしも希望の活動に加わることが出来るとは限りません。マッチングの結果、自分は当初の希望通りに古川沼での遺体捜索に加わることが出来ました。

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現在防潮堤の建設工事が進んでいる古川沼は、原則として工事関係者以外は立入禁止区域です。遺体捜索は立入禁止区域内での作業となります。主催者側から真っ先に要望されたことは、絶対に怪我や事故を起こさないで欲しいということでした。

立入禁止区域内でボランティアが怪我をしたとなると、その責任は立入禁止区域内でのボランティア活動を許可した岩手県と工事業者にも向けられてしまいます。どうして立入禁止区域内にボランティアを入れたりしたんだ、となる。そうなると、行方不明者捜索活動が出来なくなり、遺族の方々の望みが絶たれてしまう。さらには防潮堤工事さえも止められてしまう可能性が高くなる。
「良い事をしているのだから堂々とやれるだろう」と思うのは間違いなのです。工事現場に特別に立ち入らせてもらい、作業させてもらっている、というのが最も相応しい表現かもしれません。


作業の現場はほぼ海岸線付近になります。現場での最初の指示は避難経路に関する指示でした。大きな地震が来たら丘の方へ走って逃げること、その際には車は捨てて逃げて下さいとの指示がありました。「地震が起きてから津波が来るまではおおよそ20分。走れば絶対に逃げ切れます」と言った担当者の方は実際に大津波から走って逃げた経験者でした。

現在は現場の工事関係者も非常に協力的なようで、埋め立て予定地の湖底の土砂を重機で採取し、ボランティアが活動しやすい場所へと運んできてくれていました。私達はその土砂の中から遺骨や遺留品を探し出していくことになります。けれども自分はその捜索方法に驚きました。そこまで手間をかけるのかというほど丁寧に行うのです。

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(非営利特定活動法人P@CT様のフェイスブックより)

丁寧なのは悪いことではありませんがあまりにも効率が悪すぎるのではないかと思いました。なぜなら工事関係者が採取して運んできてくれた土砂が100トン。しかしボランティアが1日で消化できる土砂はおおよそ100~500kg程度です。ちなみに工事関係者が運んできてくれた100トンというのも湖底の一部の土砂に過ぎません。捜索活動の規模も考慮して遠慮した量を持ち込んできたようです。何せ約300m×2kmの面積の沼だったわけですから。

それでも丁寧な捜索を行うのには理由がありました。まず、現状発見される遺骨の一部というのは非常に小さいこと。さらに色も黒ずんでおり、石や木片との見分けが付きにくい(実際に発見された遺骨の写真を見せてもらいました)。まずは大きな瓦礫や木片を土砂から撤去し、最終的には土砂をふるいにかける。これで小さな石や木片などもほぼ摘出することが出来ます。遺骨の一部や遺留品なども摘出することが出来る。

古川沼はこれまでも全く捜索されなかったわけではありませんでした。警察による捜索が行われたこともある。しかしそれらの捜索方法では遺族の方が納得できなかったのです。確かに湖底を棒で突付くだけの捜索方法で遺骨が見付かるとは自分も思いません。震災直後であればまだしも現在は遺骨も小さく、バラバラになっている。まして土砂の中には大量の瓦礫や石が含まれており、その中から遺骨を摘出することは不可能です。今回行われている捜索内容は遺族の方にも納得してもらえる精度の捜索だと思います。

捜索中、私も骨の一部ではないかと思えるものを発見しました。現場スタッフの方が水で洗浄して見てくれましたがどうやらそれは「竹の一部」のようでした。土砂の中からは、そうした紛らわしいものが沢山出てきます。一応は見分け方も教わりましたが、パッと見の区別は普通の人には難しいレベルと思いました。震災から2年半が経過した遺体捜索はそこまで難しいレベルになってきているのです。

また、スタッフの方からミーティングの際にお願いされていた事があります。ツイッターやフェイスブック、ブログなどで活動報告をするのは良いのですが、決して「遺骨を見付けた」という断定的な表現はしないようにと言われました。実際、パッと見には骨のように見えても、警察でDNA鑑定をしてみたらそうではなかったということも多いそうです。

現実にあった話で、ボランティアの方が「遺骨を発見した」とネット上に書いてしまったそうなのですが、警察での鑑定結果は骨ではなかったそうです。しかしネット上で「遺骨発見」と書いてしまったためそれを見た遺族が警察や県等に問い合わせを入れてしまった。こうなると遺骨が出てきているのに遺族に何も連絡がないということで警察や県の対応が悪いということにもなりかねません。ボランティアやその主宰団体が発することの出来る情報はあくまで「骨のようなものが出てきた」までがその範疇なのです。それ以上の断定をすることは出来ません。

この日は猛烈な暑さの中での作業となりました。現場には一切の日陰もありません。随時休憩を挟みながらの作業となりましたので熱中症などにかかる人はいませんでしたが、9月下旬でこの暑さ、8月に作業した人達はさぞや過酷な状況だったのではないかと思いました。

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(非営利特定活動法人P@CT様のフェイスブックより)

この日、数人掛かりで小さく盛られた土砂を掘り返しましたが収穫は得られませんでした。作業に取り掛かる際には小さな山だと思いましたがスコップを入れると大量の瓦礫が含まれており、それを石、コンクリート、木材、レンガ、その他と分別するのも大変な作業で、目の前の小さな山でさえも完遂させることは出来ませんでした。遠めに見える100トンの土砂は途方もなく大きい山に思えました。

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その晩は二又復興交流センターに宿泊。ここは廃校となった矢作小学校の校舎を簡易宿泊場として改装したもので、今年の1月に出来上がったばかりです。ホテルではないので非常に簡素な宿泊施設ですが部屋や布団、お風呂なども真新しくて非常に綺麗でした。小学校の校舎に入るなんて何年ぶりだろう。周りは山に囲まれた校舎、目の前にはイワナでも釣れそうな渓流も流れています。ふと、どうして自分はこんな山奥の小学校の校舎の中に居るんだろう?と不思議な気分になりました。

長時間の運転と睡眠不足と肉体労働で体は疲労しきっているはずなのに、何も見付けられなかった悔しさでなかなか寝付けませんでした。明日こそはという気持ちと、この日のうちに実感してしまった捜索の難しさ。でもやるしかない、それだけでした。

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